第六章 その手をのばして
時刻は、午後十時を回ろうとしていた。
弥生《やよい》は五分ほどで必要な情報を調べ上げ、紅香《べにか》に報告。それを受けて、真九太《しんくろう》は紅香の車に同乗し、目的地へと向かう。夜の道路はやや混《こ》んでいたが、紅香は軽やかなハンドルさばきで他の車を避《よ》け、アクセルを踏み込む。重々しいエンジン音と加速を感じながら、真九郎は車内を見回した。紅香が知り合いの専門家に図面を引かせ、これまた知り合いの工場に注文して作らせたというスポーツカーは、そこらの高級車など比べ物にならないほどの金がかかっているらしい。防弾加工された流線型のボディは漆黒《しっこく》に塗られ、スピードメーターは時速四百キロまで刻んであった。もちろん、車内の空調設備は完璧《かんぺき》で、タバコの煙を常《つね》に浄化中。
「どうだ調子は?」
「……何とかします」
だるそうに座席に体を預けながらも、真九郎は紅香に答える。真九郎の手の平と頭には数ヵ所
、針が刺さっていた.真九郎が揚で刺したものだ。山浦《やまうら》の治療を受けたとはいえ、本当なら安静にしていなければならない怪我《けが》。しかし、これからやることは殴り込み。無理を承知《しょうち》で、真九郎は肉体を回復させるこ廷にした。崩月《ほうづき》家で学んだことの中には、人の壊し方だけではなく、治し方も含まれる。新陳代謝《しんちんたいしゃ》を促進《そくしん》させるツボに針を刺し、回復を待つ。肉体にはかなりの負担になるが、紫《むらさき》に会うまで保《も》てばいい。
弥生の報告によると、警察もマスコミもまったく動いてはいない。それに関しての竜士《りゅうじ》の言葉は、真九郎の動揺を誘うウソだったわけだ。奥ノ院《おくのいん》の特殊性を考えれば、警察やマスコミが動くわけがない。あの時点の真九郎にはわかるはずもない事情だが、ほんの一瞬でも紅香を誘拐犯《ゆうかいはん》と疑った自分が、少し恥《は》ずかしく思える。
ペットボトル入りのミネラルウォーターで喉《のど》の渇きを癒《いや》し、回復に専念していた真九郎は、そこでふと気づいた。
「……そういえぽ、弥生さんはどこに?」
ついさっき、紅香に情報を伝えるときまではいたのだが、今は姿が見えない。一緒に車に乗るのかとも思ったが、この車は二人乗りだ。いつもは彼女が座る席に、真九郎が座ってしまっている。
紅香は素っ気ない。
「さあ?」
「さあって……」
「そこらへんにいるんじゃないか?わたしが呼べば出てくると思うが、呼ぶか?」
「……いや、いいです」
いきなり天井からでも出てこられたら、心臓に悪い。
「実は、わたしもよく知らんのだ、あいつのこと。まあ忍《しのび》だし、そういうもんなんだろ」
そんな納得の仕方でいいのか……。
真九郎は紅香のことを尊敬しているが、理解できない部分も数多い。
今回の件もそうだ。
「どうするつもりだったんですか?」
「何が?」
「あいつを俺のところに連れてきて、それで、本当に上手《うま》くいくと思ったんですか?」
「わたしの直感は外れたことがない。……が、まあ、恋愛|沙汰《ざた》だからな。こればかりは、どう転ぶかわからんと思ってたよ。取り敢《あ》えず、おまえを使用人|扱《あつか》いするよう紫に伝えたり、誰かに命を狙《ねら》われてるという設定にしたりと、いろいろ工夫はしたんだが……」
「……なんか、えらく見切り発車な計画ですね」
「しょうがないだろ。計画なんて立てようがない。まさに、なるようになるってやつだ。実際、なるようになったしな」
「あなたの思惑《おもわく》通りになったとして、その後は?」
「紫を奥ノ院に戻す」
「それは……」
「恋は成就《じょうじゅ》するとは限らない。悲恋も、恋だ」
「………」
「そうおっかない目で見るなよ。別に、おまえらの気持ちを弄《もてあそ》ぼうとか、そんなつもりはなかったさ。結果としては、そうなってしまったがな。さすがのわたしも、今回ばかりはどうするべきか散々悩んでね。仮に、おまえらが望むなら、どこかへ移住させてやってもいいと思ってたが、後手に回ってこの有《あ》り様《さま》だ。悪かったよ。謝る」
「……もういいです」
真九郎は、紅香に騙《だま》されていたようなもの。
それでも何故《なぜ》か、不愉快《ふゆかい》な気持ちはない。
紫と過ごした日々を思い出すだけで、全《すべ》て許せるような気がしてしまうのだ。
「本当は、怒るところなんでしょうけどね。何でこんな気持ちになってるんだか、自分でもよくわかりませんよ」
「それにしては、いい顔してる。男の顔だな」
からかうような口調で、紅香はそう言った。
もしかしたら、紅香は自分の心の闇《やみ》を見抜いていたのかもしれないと、真九郎は思う。
それも考慮《こうりょ》して、紫と自分を引き合わせたのか。
外れたことがないという紅香の直感は、そう判断したのか。
紅香がハンドルを切り、アクセルを踏むたびに、前方の車は後ろに流れて行った。
それをぼんやりと見ながら、真九郎は尋ねる。
「紅香さんは、どこで奥ノ院のことを知ったんですか?」
「仕事」
「どんな?」
「余計な詮索《せんさく》はプロ失格だぞ」
「……ですね」
真九郎が黙り、流れて行く外の景色を見ていると、紅香はタバコを灰皿に押しつけ、新たな一本を銜《くわ》えてから口を開く。
「ま、いいか。おまえはもう無関係じゃないしな」
アクセルを踏み込んで車をさらに加速させ、紅香は言った。
「昔、おまえと同じくらいの頃、九鳳院《くほういん》家で仕事してたことがあるんだよ。そのときの仕事の一つが、奥ノ院の警備でね。これは女にしか任されない仕事だ」
「そのときに、紫の母親と会ったんですか?」
「そうだ」
「どんな人でした?」
「いい女だったよ。あんなところで一生を終えるのは勿体《もつたい》|無《な》い、世界中の男たちに見せてやりたいような、そんな女だった」
目を細めながら、紅香はタバコに火をつける。
「……まあ、奥ノ院だからこそ、ああいう女が育ったのかもしれんがな」
「そんな素晴らしい施設ですか?」
真九郎にはとてもそうは思えないが、紅香の意見は少し違う。
「一種の楽園だ」
「楽園?」
「独裁国家の下で暮らす国民と、民主国家の下で暮らす国民。どちらが幸せだと思う?」
「そりゃあ民主国家の方が自由で……」
「そうとは限らんさ。自由は、必ずしも世の中を良くするわけじゃない。今のこの国を見ろ。そこらの一般人でも、たいていの情報は手に入る。武器も買える。爆弾も作れる。麻薬も作れる。人の殺し方も学べる。それは、本当に必要か?知りたいことを何でも知り、欲しいものを何でも得るのは、本当にいいことか?知らなくてもいいことや、得る必要のないものは、あるんじゃないか? むしろ、多くを知らず、多くを得ない方が幸せに暮らせるのかもしれない。独裁国家や奥ノ院みたいなものを肯定するわけじゃないが、わたしは、たまにそう思うことがあるな」
みんなが自由を謳歌《おうか》する現代社会。自由の枠《わく》を広げることで、犯罪が増加する矛盾《むじゅん》。
人は自由を求め、やがて他人の自由を侵害するようになる。
「テレビでも観《み》れば、世の中がどれだけ醜《みにく》いか、乱れてるか、それは奥ノ院の女たちにもわかる。自分たちが暮らすのは、そういうものとは無縁《むえん》の、健《すこ》やかに過ごせる安全な場所だってこともだ。逆らわなければ男は女を大事に扱ってくれるし、子供を産むことで一族に貢献《こうけん》するという生き甲斐《がい》も持てる場所。慣れてしまえば、一種の楽園だろ」
「……紫も、そう思ってるんでしょうか?」
「本人に訊《き》け」
そうだ。そのために今、紫のもとへと向かっているのだ。
夜の闇を払うように、紅香はフロントガラスに紫煙《しえん》を吹きつけた。
「……まあ、あの子はちょっと違っていたような気もするな。何年ぶりかに奥ノ院に潜入したが、あそこはなーんも変わっちゃいなかった。気味が悪いくらい、女たちは平和に過ごしてた。そんな中であの子は、なんだか退屈そうな顔をしてたよ。子供が娯楽《こらく》を求めるのとも少し違う、他の何かを求めているように見えた。で、直《じか》に会って願い事を訊いてみれば、あんなことを言いやがる。どうも母親が、恋愛について教えたらしい。それを鵜呑《うの》みにしたわけだ。まったく、子供ってのは……」
「紅香さん、子供は嫌いなんですか?」
「嫌いだったら産むわけがない」
そう語る紅香の横顔は、彼女もまた母親であることを感じさせるもので、真九郎は少しだけ気まずくなり、窓の外に目を向けた。
母親の友人であるという紅香が自分の前に現れたとき、紫はどうして奥ノ院から出ることを願わなかったのだろう。
嫌なことから逃げない。嫌なことから逃げても、それは消えてなくなるわけではない。
紫が前に言っていたそれは、自分の人生を、九鳳院家の女の宿命を意味してもいたのか。
あの子は、九鳳院家のシステムに殉《じゅん》じるつもりなのか。
それとも……。
車が高層ピル街に入ったところで、真九郎は針を抜き、窓ガラスを下げた。吹きこんでくる風は肌《はだ》を刺すように冷たかったが、目指す建物を凝視《ぎょうし》する。財界などの会合でもよく使われ、諸外国の政治家や王族も利用するという、国内でも屈指《くっし》の最高級ホテル.オベロン。
ここに、紫がいるらしいのだ。
紅香は見事な運転で駐車場に車を滑り込ませ、エンジンを切る。紅香に続いて真九郎も車を降り、目の前のホテルを見上げた。夜空の下にそびえ立つ、地上三十五階の建造物。屋上にはヘリポートまで設置されているというそれは、間近で見ると圧倒的な存在感。
「弥生」
紅香が呼ぶと、さっきまで誰もいなかったはずの空間に弥生が立っていた。
真九郎はギョッとしたが、慣れている紅香は平然と尋ねる。
「ここで間違いないな?」
「はい」
紫は、奥ノ院に戻されてはいなかった。竜士の足取りを追ってみると、レストランや高級ブティックなど数軒に寄った後で、ここに向かったことが判明。
「どうして、奥ノ院じゃなくてホテルなんですかね?」
「変態《へんたい》だからな」
「は?」
「九鳳院家の次男、竜士ってのは、十三歳のときに飛び級で大学を出た秀才。眉目秀麗《びもくしゅうれい》で、海外の社交界でも人気の高い色男……というのが表の評判だが、裏は大違いだ。子供を嬲《なぶ》るのが大好きな変態で、金の力に物を言わせて犯《や》りまくってるらしい。
我が子がそんな目に遭《あ》っても、天下の九鳳院家が相手じゃ親も文句を言えるわけがない。それよりも、黙って大金を掴《つか》んだ方が利口《りこう》。無論、警察は動かない。世界を支配する唯一《ゆいいつ》のルールは、力だ。強い者が勝つ。強い者が偉《えら》い。正義や倫理は、もはや辞書でしか拝《おが》めないってわけさ」
「ちょっと待ってください。じゃあ、まさか、紫を……」
「犯るつもりだろ」
紅香はあっさり言った。
「どうも臭いと思ったんだ、戦闘屋を雇《やと》ったりするところからしてな。奥ノ院のトラブルなら、近衛《このえ》隊を使えばいい。わたしもそっちには注意してた。近衛隊の幹部クラスとは、なるべくぶつかるのは避けたいからな。ところが幹部は誰一人動かず、動いたのは近衛隊の中でも竜士が自由に動かせる下《した》っ端《ぱ》の兵だけ。つまり、当主には内緒で、この機に乗じて願望を叶《かな》えようって魂胆《こんたん》なんだろ。わざわざ高級ホテルに連れ込んだのは、実の妹へのせめてもの誠意ってとこじゃないか」
奥ノ院にもルールはある。まだ初潮《しょちょう》のきていない女には、手を出してはいけない。女は貴重な財産であり、なるべく多く子供を産ませなければならないのだから、ただ性の捌《は》け口としてのみ使うことは禁じられているのだ。
紅香が調べたところによると、竜士は妹の紫に御執心中。頻繁《ひんぱん》に奥ノ院を訪れては、少女趣味丸出しのドレスをよくプレゼントしているらしい。もちろん、それだけではないだろう。竜士と対面したときの紫の怯《おび》えようは、普段から手荒い扱いを受けている証拠。ルールのせいで紫を犯せないストレスを、竜士はそうやって発散していたのか。そこに、この好機だ。誘拐された妹の奪還《だっかん》。奥ノ院に戻す前に、竜士は念願を叶える。己《おのれ》の欲望を満たす。紫は他言しない。真九郎の命を救うかわりに竜士に全て従うと、約束したのだから。
真九郎は思い出す。紫は以前、真九郎に叩《たた》かれたときに言っていた。
「痛い」と「怖い」は一緒ではないのだな、と。
それは、竜士に殴られたときとの比較だったのか。
妹に暴力を加え、痛みと恐怖を植え付け、屈服させようとする兄。
そんな男に、紫は連れて行かれた。
俺のせいだ……。
自分が紫を守りきれていたら、こんなことにはならなかった。紫を守るはずの自分が、逆に救われ、そして今、紫は犠牲《ぎせい》になろうとしている。いや、もう既《すで》にそうなっているかもしれかい。
間に合うだろうか。そして紫は、はたして自分に応《こた》えてくれるだろうか。
これからやろうとしていることは、もしかしたら無駄な足掻《あが》きなのかもしれない。
「いいことを教えてやろう」
真九郎の僅《わず》かな迷いを察したように、紅香は言った。
「人生には無数の選択|肢《し》がある。が、正しい選択肢なんてもんはない。選んだ後で、それを正しいものにしていくんだ」
「……前向きですね」
「後ろに何がある?」
その通りだ、と真九郎は思った。
過去を悔やんでも仕方がない。未来を恐れても仕方がない。
真九郎は今、前に進まなければならないのだ。
真九郎と紅香は、ホテルの正面玄関へと向かった。
肩にトレンチコートを羽織《はお》った紅香を先頭に、真九郎がその後ろに続く。弥生の姿はまたしても消えていたが、もう気にしない。常駐しているドアマンが恭《うやうや》しく頭を下げるのを横目に見ながら、回転ドアを通り抜けてロビーへ。高い天井には巨大なシャンデリア、床は高級|絨毯《じゅうたん》、柱は大理石、壁には絵画、それでいて全体的には落ち着いた色調で統一された空間。明らかに社会的地位の高い人間しかいないここは、普段の真九郎なら足を踏み入れるのに躊躇《ちゅうちょ》するような場所。しかし今は、どうでもよいことだ。
紅香は一度足を止め、フロントカウンターの場所を確認してから進む。
「ま、他の客に迷惑をかけない程度で済ませるか」
ロピー内は禁煙だとハッキリ表示してあったが、紅香はそんなもの目に入らないようにタバコを街え、ジッポライターで火をつける。従業員たちは、誰も注意しない。それどころか、彼女に見とれるような視線を送っていた。他の客たちも同様で、それぞれの目的を忘れたように紅香の動きを目で追う。
人を惹《ひ》きつけずにはおかない強烈な美貌《びぽう》、自信に満ちた足取り、他を圧する眼差《まなざ》し。
何だかよくわからないが、とにかく綺麗《きれい》で強そうな女だ。
それが、紅香の姿を目に留めた者の感想。
周囲の反応を気にせず、紅香はフロントカウンターに近寄ると、軽い調子で声をかけた。
「ちょっと訊きたいことがあるんだが」
あまりに貫禄《かんろく》のある紅香の態度、そして美しい容姿に目を奪われながらも、年配の従業員は冷静に頷《うなず》いた。
「はい、何でしょうか?」
「九鳳院竜士は、何階の何号室に泊まってる?」
さすがに一流ホテルの従業員つ
内心の動揺を表には出さず、紅香に対してもマニュアル通りに対応する。
「申し訳ありませんが、そのようなご質問にはお答えしかねます」
まあそうだよな、と後ろで見ていた真九郎は思った。お得意様である九鳳院家のことを、おいそれと話すわけがない。この種のホテルなら、その辺《あた》りの情報管理も徹底しているはずだ。
焦《あせ》る気持ちを抑えて、真九郎はそれとなく周りに目をやる。各所に配置された黒服の男たちを確認。かなりの人数だ。全員が懐《ふところ》に銃を携帯。その立ち方からも、軍か警察で訓練を受けた者たちだとわかる。ホテルが契約している民間の警備会社の人間、ではないだろう。民間では、さすがに拳銃の携帯までは認められていない。そこから推測すると、噂《うわさ》に聞く近衛隊というやつか。紅香が言うには、近衛隊の幹部クラスは銃火器を装備していないらしい。真の強者《つわもの》は飛び道具を用いない、という独特の思想があるそうで、つまり今このホテルにいるのは、近衛隊の中でも下位の者ばかりということになる。紅香の派手《はで》な容姿は当然のごとく目をつけられたらしく、既にどこかに連絡を取っている者もいた。真九郎と紅香の写真が出回ってるわけではないだろうが、不審《ふしん》な人物は問答無用で排除されてもおかしくはない雰囲気《ふんいき》。
弥生の情報、そして近衛隊の存在からしても、紫と竜士がこのホテルにいるのは確実。
壁のプレートを見ると、上の階にはレストランやバーなどもあり、宿泊客以外が中をうろついてもそれほど不自然ではないはずだ。
取り敢えず上に行って、そこから……。
真九郎のその思考は、紅香の次の行動によって中断した。
紅香が、懐から拳銃を引き抜いたのだ。イタリア製、ベレッタM93R。
フロントの従業員と真九郎が同時に血相《けっそう》を変えた瞬間、紅香は天井に向けて発砲。けたたましい破裂音が響き、続いて天井に吊《つ》り下げられていた巨大なシャンデリアがゆっくりと落下。そして地面に激突。その衝撃で床が大きく揺れたのに一泊《いっぱく》遅れて、客の怒号《どごう》と悲鳴がロビー内に轟《とどろ》いた。シャンデリアの破片が飛び散り、従業員は慌《あわ》てふためき、客は逃げ出す。
「ちょ、ちょっと、紅香さん!、他の客には迷惑をかけないって……」
「伏せてろ」
真九郎は従った。頭を抱えるようにして、その場に伏せる。彼女が何をするつもりなのか、わかったからだ。
配置されていた黒服たちが、一斉《いっせい》に動く。出ロへと急ぐ客たちを押しのけながら銃を構え、紅香に向けてまずは降伏|勧告《かんこく》。
紅香はそれを、鼻で笑った。
「近衛隊も質が落ちたな。こういうときは、即射殺だよ」
不敵な笑みを浮かべながら、彼女は右手の凶器を解き放つ。瞬《またた》く間に二人の黒服が撃ち倒され、残りの黒服たちは反撃を開始した。黒服たちの放つ銃声は機械的。だが紅香の放つ銃声は、持ち主の気性を表すかのごとく荒々しい。猛獣が次々と獲物《えもの》を食い殺していくように、彼女は黒服たちを撃ち抜いていく。辺りに跳《は》ねる薬葵《やっきょう》が絨毯を焼き焦《こ》がし、真九郎はそれを手で払い除《の》けながら、紅香の姿に呆気《あっけ》に取られていた。紅香は、フロントカウンターから一步も動いていない。左手に持ったトレンチコートをまるで闘牛士が猛牛を翻弄《ほんろう》するように華麗《かれい》に翻《ひるがえ》し、迫り来る銃弾を全て防いでいる。防弾繊維で編まれたコートは、一発たりとも彼女の肌に弾を届かせない。
「真九郎、耳を塞《ふさ》げ」
まさかそこまでと思いながらも、真九郎は手で耳を塞いだ。大理石の柱の陰《かげ》へと隠れた黒服に、紅香は手榴弾《しゅりゅうだん》を投げる。地響きと爆風がロビーを吹き抜け、それが静まった頃にはもう、立っていられる者は三人にまで減っていた。真九郎と紅香、そして、あまりの事態に足がすくんで逃げ出せなかったフロントの従業員。
紅香は制圧したロビーを一度見渡し、コートをくるりと回してから再び肩に羽織る。そして長くなったタバコの灰に気づき、混乱の極致を示すように青ざめた従業員に言った。
「灰皿」
「……は、はい、ございます」
従業員はポケットから私物の携帯用灰皿を出し、彼女に仕《つか》える召使《めしつか》いのように、それを捧《ささ》げ持つ。
その灰皿に灰を落としながら、紅香はさっきと同じ質問をした。
「で、九鳳院竜士はどこ?」
従業員にマニュアルを守るよう指示すべき支配人は、一番に逃げ出して既におらず、他の従業員も全て逃げ、残された彼にできるのは紅香に従うことのみ。そうしなければこのホテルは破壊されてしまうと彼は思った。
「さきほどは失礼いたしました。お答えいたします」
九鳳院竜士の部屋は、最上階のスイートルーム。
そこへ行くのに必要なスペアキーも、従業員は紅香に差し出した。
「ありがと」
それを受け取り、チップとして数枚の紙幣《しへい》を従業員の胸ポケットに捻《ね》じ込んでから、紅香は步き出す。ホテルの外からは、さっそく集まり始めたバトカーのサイレンが聞こえてきた。一般市民からの通報ならこの数倍は時間がかかるだろうが、そこはホテルとしての格が物を言うのだろう。
「紅香さん、これじゃテロリストです……」
「死人は出しちゃいない」
真九郎の抗議にも、紅香は涼しい顔。たしかに、黒服たちは肩や足を撃ち抜かれただけで、呻《うめ》き声を漏《も》らしてはいるが、致命傷ではないようだった。あの状況でそこまで冷静な射撃が出来る腕と神経は、さすが柔沢《じゅうざわ》紅香ということか。
真九郎にスペアキーを渡し、ベレッタのカートリッジを交換しながら紅香は言う。
「雑魚《ざこ》億ここで食い止めてやる。警察の方は……まあ、あとで【円堂《えんどう》】と話をつけてもいいな。おまえは、さっさと行け。死んだら骨は拾ってやるよ」
真九郎は頷き、エレベーターへと向かった。後ろからはまたしても銃声が響いていたが、降り返らず、扉の開いたエレベーターに乗る。
目指すは三十五階。低い作動音と浮遊感に包まれながら、真九郎は深呼吸。軽く手足にカを入れてみると、多少は痛みが引いていた。気力が肉体を衝《つ》き動かしている。
エレベーターは三十四階で一度停止。だが開閉ボタンの下にある鍵穴《かぎあな》に真九郎がキーを差し込んで捻《ひね》ると、三十五階まで上昇。到着し、扉が開くと、そこはもう部屋の一部だった。このホテルの最上階にあるスイートルームは、ワンフロア全てを使用。ロビーのものよりもさらに高級な家具や調度品が置かれた、静かな空間だ。周囲には、他の部屋へと通じる扉が複数。見える範囲には誰もいない。階下の騒動も、ここまでは及ばない。
真九郎は絨毯を踏みながら進み、目を閉じて気配を探る。未熟な真九郎ではたいした精度は期待できず、しかも今の体調では普段よりさらに落ちるが、それでもわかった。
これだ、と選んだ扉を開く。
そこは寝室。広い部屋の真ん中には天蓋《てんがい》のついた大きなベッド、周りにはいくつかのテーブルと椅子《いす》。壁の一面はガラス張りで、その向こうには高層ピル群の明かりが広がっている。そのガラス窓の側《そば》に、竜士がいた。上半身をはだけ、片手にはワイングラス。
「お、来た来た」
真九郎の姿を見ても、竜士に驚いた様子はなかった。
まるで、これを予期していたかのような余裕の態度。
「本当に来るとは思わなかったなあ……」
「紫はどこだ?」
竜士は真九郎の言葉に答えず、ワインを一口飲んでから笑いの形に唇《くちびる》を歪《ゆが》める。
不穏《ふおん》なものを感じ、真九郎は勘《かん》に従って横に跳《と》んだ。数センチ側を通過する鋼鉄の腕。その風圧に押されるように、真九郎は小走りで距離を取る。
扉の陰で待ち伏せていたのは、アロハシャツの黒人。竜士が【鉄腕】と呼ぶ男。
「来るのはわかってたよ、小僧《こぞう》。五月雨《さみだれ》荘の住人なら、あれでは終わるまい」 【鉄腕】は部屋の扉を後ろ手に閉め、真っ白な歯を剥《む》き出しにして笑う。
真九郎は上着を脱ぎながら、さらに後退。
「紫はどこだ!」
「こっちこっち」
竜士の声に目を向けると、天蓋をめくったベッドの上に紫が寝かされていた。初対面のときと同じように、ドレスで美しく着飾った姿。童話に登場する姫君。その両手はベッドの柱に手錠《てじょう》で繋《つな》がれ、虚《うつ》ろに開かれた瞳《ひとみ》は、まるで魂《たましい》が抜けているかのよう。あるいは、これは全てを諦《あきら》めた者の姿か。
「紫!」
真九郎の声にピクリと反応し、紫はゆっくりと首を動かした。
真九郎の姿を認め、大きく目を見開く。
「どうして……」
それに答えようとする真九郎の前に、【鉄腕】の巨体が壁となって立ち塞がった。
「どけ!」
上着を【鉄腕】の顔に投げつけて視界を奪い、真九郎は股間《こかん》に蹴《け》り。効《き》かない。腹を目がけて左右の拳《こぶし》を連打。ビクともしない。
「くそっ!」
【鉄腕】の鳩尾《みぞおち》に、真九郎は右拳で渾身《こんしん》の一撃。しかし、分厚い鉛《なまり》のような筋肉が全ての衝撃を遮《さえぎ》り、内部まで威力《いりょく》は伝わらない。
「気は済んだか?」
【鉄腕】は真九郎の上着を引き千切《ちぎ》り、子供をあしらうプロレスラーのごとく、無造作《むぞうさ》に右腕を振るった。それを両腕で防いだ真九郎の体が宙を飛び、床を転がり、テーブルを倒してもまだ転がり、壁にぶつかってようやく止まる。両腕に痺《しび》れを感じながら、真九郎は己の読みの甘さを思い知った。
基本性能が違い過ぎる。これが、プロの戦闘屋なのだ。技《わざ》も術も薬も機械も何でも使い、ひたすら戦闘に特化した肉体を作り上げた者。体調が回復していれば、不意を突かれなければ、何とか対抗できるはず。そんなものは幻想。これでは勝負以前の問題。
真九郎を追撃せず、【鉄腕】は竜士に尋ねる。
「坊ちゃん、今度こそ殺していいんスよね?」
「ちょい待て」
竜士は手を振り、ワインを飲み干してからグラスを椅子の上に置く。
「あー、君の名前は……どうでもいいか、忘れたし。で、下で派手に暴れてくれちゃってる奴《やつ》って、君の仲間?」
ロビーにいる近衛隊から連絡を受けたのだろう。
竜士が窓の側にいたのは、パトカーが集まる様子を見ていたからなのか。
真九郎は答える。
「仲間だが、ここからは関係ない」
「関係ない?」
「もうこれは、俺と紫の問題だ」
「君と紫の問題?何それ?」
「俺は、紫に会いに来た」
「……何なの君?会話が通じないよ。これだから、育ちの悪い奴は嫌いなんだ。頭悪すぎ。 【鉄腕】、二、三発殴ってやれ」
紫はベッドから起き上がろうとし、それを手錠に邪魔されつつも、兄に叫ぶ。
「竜士兄様、約束が違います! 真九郎には何もしないと……!」
「おー、急に元気になったな我が妹よ。やっぽそうでなくちゃね。人形みたいなおまえを抱いても、面白《おもしろ》くない。元気なおまえを躁躍《じゅうりん》しないと、面白くない。生意気なおまえを力ずくで犯さないと、面白くない。【鉄腕】のアドバイスに従って、この小僧を待ってて良かった」
ベッドに近づき、紫に手を伸ぽす竜士。紫は必死に手足を動かすが、鎖《くさリ》が激しく鳴るばかりで、逃れる術《すべ》はない。竜士に体を弄《まさぐ》られながらも、紫は懇願《こんがん》した。「お願いします、竜士兄様! 真九郎には、もうこれ以上……」
「しょうがないだろ、向こうがつっかかってくるんだからさあ。歯向《はむ》かう者は潰《つぶ》せ。それが九鳳院家のやり方だし。そんなに嫌なら、おまえが、あのわからずやを説得してみれば?」
竜士は紫の髪を掴み、真九郎の方へと顔を向けさせる。
紫は一度目を閉じ、数秒して目を開けると、もう平静さを取り戻していた。
短い間に全ての感情を抑え込む、驚くべき精神力。
「真九郎、もういい。わたしは、これでいいんだ」
「本当か?」
【鉄腕】の動きを警戒《けいかい》しつつも、真九郎は紫を見つめて問う。
「おまえは、それで本当にいいのか、紫?」
彼女の瞳は、いつものようなまっすぐな光を宿してはいなかった。それは迷いか。
「わたしは、九鳳院家の女だ。だから、九鳳院家のために生きるのは当然のことで……」
「そんなことはどうでもいい。そんなことは、どうでもいいんだ。九鳳院家のシステムも、奥ノ院のことも全部聞いた。でも、それはどうでもいい。俺は、おまえの本当の気持ちを聞きたい。そのために、会いに来た」
「わたしの、本当の……?」
「おまえが奥ノ院に戻ることを望むなら、本当に望むなら、俺はそれを止めない。追わない。納得する。このまま消える。でも、そうじゃないなら、おまえの本当の気持ちが違うなら、それを言え。言ってくれ。俺が、何とかする」
「わ、わたしは……」
紫は僅かに表情を崩《くず》し、真九郎の視線に耐えられないかのように、目を伏せた。
そんな妹の様子に嫉妬《しっと》したのか、兄は舌打《したう》ち。
「あのさ、君、バカじゃないの?九鳳院家の女は全て、九鳳院家の男のために生きるんだよ。昔から、そう決まってんの。こいつもそれを納得してる。わかってる。こいつはもう、俺のものだ」
それを証明するためか、竜士は紫の手錠を外した。
束縛《そくばく》を解かれても、紫は逃げない。逃げられない。目に見えない束縛が、まだある。
「ほらほら、こいつも自分が俺のものだと、ちゃんとわかってる」
お気に入りの人形を扱うように、竜士は紫を膝《ひざ》の上に乗せた。自分の体を這《は》い回る竜士の手にも、紫は何も抵抗しない。痛みを堪《こら》えるように唇を噛《か》み、兄に身を任せるだけ。
竜士は、上機嫌で真九郎に手を振る。
「君、もう帰っていいよ。許してあげる。こいつの覚悟に免じて、見逃して……」
「黙れ、ゲス野郎」
「……何だって?」
「俺は今、紫と話してるんだ。おまえは関係ない。引っ込んでろ」
「君、俺が誰だか……」
「もう紫に触るな。それ以上触ったら、おまえの歯を全部叩き折る」
九鳳院家の次男である竜士は、誰からもこんな口をきかれた経験がないのだろう。
竜士は何度か瞬《まばた》きし、引きつるような声で言った。
「……【鉄腕】、その無礼者をぶっ飛ばせぇ!」
【鉄腕】は頷き、真九郎はそれを迎え撃つために構える。だが、自分の足がまた震え出したことに意識が向いてしまった瞬間、ズドン、と重くて硬《かたか》い塊《たまり》が真九郎の腹に突き刺さった。「がっ……!」
口から内臓が飛び出しそうな痛みと衝撃に体が痙攣《けいれん》し、前のめりに倒れそうになったとこりで、さらに後頭部に衝撃。それは殴るというよりも、鋼鉄のハンマーで肉を叩くのに近い行為。頭蓋骨《ずがいこつ》が歪むかと思うような痛みに悶《もだ》えながら、真九郎は顔から床に倒れる。その背中を、【鉄腕】は踏みつけた。巨体の重圧に、真九郎の背骨が大きく軋《きし》む。
「妙な鍛《きた》え方をしてるな、小僧。この短時間で動けるほど回復した点といい、この耐久力といい、土台作りは文句無し。ところが肝心《かんじん》のエンジンが、貧弱過ぎる。アンバランスだ」
【鉄腕】がさらに足に力を加え、真九郎は背骨の痛みに悲鳴を漏らしそうになったが、寸前でそれを呑《の》み込んだ。
紫と目が合ったのだ。幼《おさな》い顔は今にも泣き出しそうで、彼女をそんなふうに悲しませる自分が、真九郎は情けなかった。
「し、真九郎!」
真九郎に駆け寄ろうとする紫を後ろから抱き止め、竜士は言う。
「そこでストップだ、【鉄腕】」
【鉄腕】が足を上げ、重圧から解放された真九郎は、倒れたまま身体機能を確認。呼吸をするだけで体が痛む。あと、どれだけ動けるのか。
「竜士兄様、もうやめてください! 真九郎が、真九郎が、死んでしまう……」
「ごめんよ紫。愛《いと》しの妹よ。ちょっと、ほんのちょっと、頭に血が上っただけさ。ちゃーんと約束は守る。おまえが俺のものになれば、あいつは助けてやるよ」
紫の小さな体を弄りながら、竜士は卑狽《ひわい》な笑みを浮かべた。
「俺さ、昔から、おまえを狙ってたんだよね。赤ん坊の頃からだよ。初めて見たとき、その目も声も手も足も耳も肌も髪も舌も歯も爪《つめ》も匂《にお》いも体温さえも、全部気に入った。だから、全部俺のものにすることにした。他の子供も数え切れねえほど抱いてみたけどさ、やっぽダメだわ。おまえでないとダメ。おまえに突っ込まないと、俺のこの衝動は、満足しない」
真九郎は、顔を半《なか》ば絨毯に埋めつつも、それを聞いていた。この歪んだ兄に狙われながら、紫は奥ノ院で過ごしていたのか。九鳳院家では、女は男に絶対服従。どんな理不尽《りふじん》にも、逆らうことは許されない。まだ初潮のきていない紫は、器《うつわ》が整ってないという理由だけで竜士の手を逃れていたが、それはやがて消える理由。いずれ自分は、この兄に犯される。好き放題に犯される。だから彼女は、恋という美しい感情に憧《あごが》れたのか。そんなものが本当にあるのかを、知りたかったのか。
竜士は紫の顎《あご》を掴み、彼女の頬《ほお》をじっくりと舐《な》め上げた。
「おまえの、その反抗的な性格、俺は好きだよ。そういう方が、仕込み甲斐があるってもんだしな。おまえはすぐに、俺に従う気持ち良さに酔うようになる。そういう女に、俺が変えてやる。そして俺の子を産め。俺は兄貴を超えて、当主になるんだ」
紫は何も言わない。ただ嫌悪感に耐えるように小さな肩を震わせ、膝の上に乗せた手をギュッと握る。その様子に欲情を刺激されるのか、竜士は鼻息を荒くし、紫の足を撫《な》で擦《さす》りながら
スカートの中に手を入れた。紫は本能的に足を閉じようとしたが、竜士はその耳元で脅《おど》すよ為に言う。
「な-に抵抗してんだよ。いいのか?死ぬぞ。あいつが死ぬぞ。おとなしくしてれば、あいつを生きたまま帰してやるって」
紫が足から力を抜くのを見て、竜士の卑狽な笑みが濃くなる。
「それでいい。そうやって素直にしてれぽ、ちゃんと気持ち良くして……」
竜士は言葉を止めた。
真九郎がテーブルに掴まり、立ち上がろうとしているのを見たからだ。
「……もう紫には触るなと言ったはずだ、ゲス野郎」
まだ呼吸は整わない。足元もおぼつかない。拳に力も入らない。
体中から非難の大合唱。もう動くなと真九郎に警告する。
うるさい黙れ。ここは立つべきところだ。立たなきゃいけないんだ。
「その手を、放せ……」
「頑張るねえ」
竜士は、不快そうに顔を歪める。
「いいとこなんだから、邪魔すんなよ。【鉄腕】、そのうるさい奴にパンチ」
避《よ》ける間もなく、鋼鉄の拳が真九郎の顔面に沈んだ。どうしてまだ意識があるのか、自分でも不思議なくらいの衝撃。背後の壁に叩きつけられ、真九郎はそのままズルズルと床に膝をつく。死ぬほど痛かった。涙が出そうだった。でも今は、それどころじゃない。
「……紫、答えろ」
口が勝手に動いていた。
「……おまえ、俺が負けると思うか?」
なんて強がり。なんて虚勢《きょせい》。
まさか自分の中から、こんな言葉が出てくるとは。
そんな驚きを覚えながらも、真九郎は続けた。
「俺が、こんなアロハシャツを着たデカイだけの奴に、負けると思うか?」
こんなときでも情けなくブルブル震え出す足。弱い自分。
真九郎は膝を両手で掴み、握り潰す勢いで力を込め、紫の答えを待った。
紫は、大きな瞳で真九郎を見つめながら、呟《つぶや》くように言う。
「……思わ…ない」
何てこった。この期《ご》に及んでも、この子は、俺添強いと信じている。本気で信じている。
この子は俺を信じてくれている。
「だったら、さ……」
真九郎は不敵に笑って見せた。まるで紅香のように。
「俺のことは気にしなくていいから。大丈夫だから。言ってみろよ、紫。おまえは本当に、それでいいのか?」
紫は、込み上げる感情を堪えるように口を引き結び、しかしそれでも抑え切れず、その瞳から涙が一筋こぼれ落ちる。
「……嫌だ」
今までずっと我慢《がまん》していたものを、彼女は解き放った。
「わたしは、本当は、本当は、こんなの、嫌だ、嫌なんだ……」
「このクソガキ!」
紫の胸倉《むなぐら》を掴み、竜士は血走った目で睨《にら》みつける。
「素直に、俺のオモチャになってりゃいいんだよ!」
「嫌だ!」
「俺に逆らうってのか!」
「おまえなんか、おまえなんか嫌いだ!」
「クソガキ!」
竜士に殴り飛ばされ、紫はベッドの上に転がった。
その痛みと悔《くや》しさに、涙と鼻水で顔をグショグショにしながらも、紫は鳴咽《おえつ》を混じえて訴える。自分の、本当の気持ちを。
「…こんなの……やだ……やだよぉ…………助けて……真九郎……」
「わかった」
足の震えが止まった。
全ての迷いが消えた。
真九郎は、決めた。
俺は、本当に弱い人間で、こんなときでも心の底では弱音が燻《くすぶ》っているし、逃げ出したい気持ちも残っているし、本当に本当に弱い、情けない人間だけれど、でも……。
真九郎は拳を握り、両足でしっかりと床を踏みしめて立つ。
俺は、この子の前では強くなろう。
せめてこの子の前でだけは、紅《くれない》真九郎は、強者になろう。
今ハッキリと、そう決めた。
「紫、少し待てるか?」
涙を手の甲《こう》で拭《ぬぐ》い、紫はコクンと頷く。
彼女を安心させるように、真九郎は微笑《ほほえ》んだ。
「ごめんな。すぐに片付けるよ」
「……片付ける、だと?」
顎を擦りながら、【鉄腕】は訝《いぶか》しむように真九郎を見下ろす。
「殴られ過ぎて、頭がいかれたか、小僧?」
真九郎はそれに笑みだけを返し、心の中にある厳重な封を解く。
夕乃《ゆうの》の警告が脳裏《のうり》をよぎった。
ごめんね夕乃さん。でも今は、もっと大事なことがあるんだ。
俺にできることを、あの子に見せてやりたい。
「くぅっ」
骨が裂けるような激痛。それに続いて、右|肘《ひじ》の皮膚《ひふ》を内側から何かが突き破った。血を滴《したた》らせたそれは、ほのかに輝く水晶にも見える、鋭角な物質。そこから熱風のごときエネルギーが全身に流れ込んでいく。体中の血液が入れ替わるような興奮《こうふん》。体中の細胞が生まれ変わるような歓喜《かんき》。込み上げる破壊衝動。暴れ狂おうとする手足を統率《とうそつ》し、真九郎は己の行動を定める。
敵は二匹。救うは一人。果たす力は我《われ》にあり。
「来いよ、【鉄腕】」
体内に収まりきらないエネルギーを逃がすように熱い息を吐き、真九郎は拳を握る。
まずはこいつからだ。
「小僧……」
真九郎の豹変《ひょうへん》ぶりを警戒しつつも、そこはプロの戦闘屋。右肘から突き出た異物に対しても、【鉄腕】は何も問わない。鋼鉄の拳を、初めて本気で構えるのみ。
彼は悟ったのだ。真九郎が、自分と同じステージに上がってきたことを。
【鉄腕】は叫ぶように言った。
「俺は悪宇《あくう》商会所属、【鉄腕】ダニエル.ブランチャード! 名乗れ、小僧!」
「崩月流甲一種第二級|戦鬼《せんき》、紅真九郎」
真九郎にとって初めての名乗り上げ。死んでも退《ひ》かない意思表示。
二人は同時に前進した。ブランチャードが右腕を大きく振りかぶったのを見て、真九郎もそれに合わせる。正面からの全力攻撃。上等だ。鋼鉄の腕を、真九郎は生身《なまみ》の腕で迎撃《げいげき》。二種類の風切り音に続いて、両者の中間でお互いの右腕が激突。金属と肉が、高速でぶつかり合う異音。ベッドの上にいた竜士は悲鳴を漏らし、紫は目を大きく見開く。その数瞬後、ブランチャードの右腕が弾《はじ》き飛ばされた。巨体がよろめきながら後退。真九郎の右腕に残るのは、心地良い痺れ。だがブランチャードの右腕に残るのは、敗北の証《あかし》。チョコレートのように脆《もろ》くひび割れた鋼鉄の皮膚を見て、ブランチャードの顔が驚愕《きょようがく》に歪む。
その隙《すき》を逃さず、真九郎は仕掛けた。
「さあ、相撲《すもう》だ」
膝を深く曲げて前屈《まえかが》みになり、真九郎は両拳を床につく。そうして溜《た》めこんだバネを、爆発的な勢いで解放。ブランチャードにタックル。衝突。その加速と突進力にブランチャードは冷や汗を流し、数メートル下がるも、靴底で絨毯を削りながら踏み止まった。
「こ、小僧、この力は……!」
「意外と軽いな、あんた」
ブランチャードの体重を、真九郎は百五十キロ強と推測。今の真九郎にとっては、バカバカしいほどの軽量級。
真九郎は短く息を吸い、
「どすこい!」
右手の突っ張りを一撃。プランチャードの巨体が、床と水平に吹っ飛んだ。背中から分厚い窓ガラスを突き破り、その破片とともに夜の街へと落ちて行くブランチャード。ホテルの明かりを浴びながら落下する様子を、真九郎は数秒間だけ眺《なが》める。
悲鳴一つ上げないとは、さすがプロの戦闘屋。これでも死にはしないだろう。
強引な決着のつけ方だったが、今の真九郎にはこれが限界。
暴走しそうになる力を上手《うま》く誘導し、何とか当てられた。
比類《ひるい》無き剛力《ごうりき》。それが崩月家に伝わる力。それをもたらすのが、この右腕にある角《つの》だ。崩月家の者は生まれながらに角を持ち、それを用いて尋常《じんじょう》ではない身体能力を発現させる。真九郎は、師匠《ししょう》である法泉《ほうせん》からその一本を右腕に移植されていた。この強力なエンジンに耐え得る土台作りが、崩月家で行った厳《きび》しい修行の理由。
崩月家の人間に肉体を近づけるため、真九郎は八年を必要とした。
「ば、化け物!」
ベッドから降りて扉に走る竜士に、真九郎は足元に落ちていたガラスの破片を投げる。それに足を貫かれ、竜士は転倒。真九郎は竜士に近づいて左拳を握り、下からすくい上げるようなアッパー。口から砕《くだ》けた歯を撒《ま》き散らしながら、竜士の体は天井にぶち当たり、床に落ちた。
「が、がはっ、げえっ……!」
痛みでのたうち回る竜士を、真九郎は冷たく見下ろす。
「殴られるのは初めてか?」
本当は、ブランチャードと同じように窓から落としてやりたいところだったが、腹違いとはいえ紫の兄。この程度で我慢するしかない。
恐怖で顔が青ざめながらも、竜士は大半の歯を失った口を大きく開いた。
「き、貴様、もう終わりだ、パーカ! 九鳳院家に逆らった奴は、死刑だ!」
こんな男が紫と血が繋がってるとは、とても信じられない。
異常な家風が、こういう人間を育《はぐく》むのだろうか。
だったら紫の存在は、ちょっとした奇跡だ。
竜士の相手をするのがバカらしくなり、真九郎は紫に目を向ける。彼女は感極《かんきわ》まったような顔で、真九郎を見つめていた。真九郎と紫、お互いが言葉を口にしようとしたとき、突然、割れた窓から強烈な光と音が乱入。プロペラの激しい駆動音。眩《まぶ》しいサーチライト。プロペラの風圧にカーテンが大きく揺れ、細かいガラスの破片が飛び散るのを見て、真九郎は紫の盾《たて》になる位置まで移動。割れた窓の外には、一機のヘリコプターがホバリング中。
もう増援が来たのか、と目を細めた真九郎の視界に、サーチライトを背に受けた人影が飛び込んできた。ヘリコプターと窓との距離は、どう見ても十メートル以上。人影は、その距離を跳躍《ちょうやく》してきたのだ。床に着地した、と思っ允ときにはそれはもう、真九郎の手前一メートルほどに接近。真九郎の眼前に、刀《かたな》の切っ先が突きつけられる。
「動くな」
近衛隊の黒服に身を包んだ、東洋系の若い女だった。視線だけで相手を斬《き》り殺しかねない、恐ろしく鋭い目つき。髪は、床に届きそうなほど長い三つ編み。左腰に二本の太刀《たち》を差した彼女は、残る一本も抜き放つと、その切っ先を竜士に向ける。
「そちらも同様に」
「リン.チェンシン! 近衛のくせに、俺に刃《やいば》を向けるか!」
「御前が参ります。お静かに」
銃火器を持たない、双刀《そうとう》使いの彼女は、紅香の言っていた近衛隊の幹部クラスか。紫を連れて早くこの場を離れたいところだったが、刃から放たれる殺気は、今の真九郎でさえ容易には対抗できそうにないほどの濃度。迂闊《うかつ》に動けば、腕か足の一本は切断されかねない。そんな怪我《けが》を負ってしまったら、紫を連れての脱出は不可能。刃を見据《みす》えながら、真九郎は周囲の気配を探った。屋上のヘリポートを利用して、誰かが降りてくる。
荒々しく扉を開き、部屋に現れたのは壮年の男。名乗らなくとも、真九郎にはそれが九鳳院|蓮丈《れんじょう》だと察しがついた。和服、片手には杖《つえ》、足には下駄《げた》。口と顎にたくましい髭《ひげ》を蓄えた顔は、権力者というよりも、貴族というよりも、まるで世界の転覆《てんぷく》を企《たくら》む革命家のごとき異相《いそう》。途方もなく濃密な気配を持つこの男が、九鳳院|財閥《ざいばつ》の総帥《そうすい》。表御三家の一角、【九鳳院】の当主。
現場を制圧して主《あるじ》を迎えた近衛隊のリン.チェンシンは、真九郎と竜士に刃を向けたまま、無言で蓮丈に一礼。
「帰国早々に、これか。くだらん」
蓮丈は、感情の色がない瞳で室内を見回した。その視線は、道端に転がる石に対するのと同じように真九郎を素通りし、竜士に留まる。
「お、親父《おやじ》、これは……」
「事情は知った。弁解は聞かぬ」
竜士は口を閉ざし、父親に頭を下げた。
あれほど無駄口を叩いた男も、この父親の前では従順。当主の命令は絶対。
蓮丈の持つ杖が、床を突いた。それはまるで、地に足をつける全ての者に命令するかのごとく鋭い響き。真九郎には、部屋全体が揺れたようにさえ感じられた。
「竜士は屋敷で謹慎《きんしん》。紫は奥ノ院へ移送。以上だ」
九鳳院蓮丈の決定。
その事務的な口調に、真九郎は怒りの余り歯軋《はぎし》りする。
……それだけか?
この状況を見て、それだけか?
自分の息子が自分の娘を|強姦《こうかん》しようとしていたのを知って、それだけか?
何の情も感じられない蓮丈の態度に、何より紫に声さえかけようとしないその態度に、真九郎は本気で頭にきた。
「待て!あんた、紫の父親だろ! 自分の娘がどんな目に遭ってるのか……」
「黙れ下郎《げろう》、口を開くな!」
リン.チェンシンの刃が喉に浅く刺さり、血が流れる。これ以上言葉を発すれば、彼女は容赦《ようしゃ》なく刃で真九郎の喉を貫くだろう。
だから何だ。それが何だ。真九郎は気にしなかった。
喉を貫かれる前に、言いたいことを言ってやる。
その気迫に何かを感じたのか、蓮丈は初めて真九郎に目を留めた。凄《すさ》まじい眼力。右腕の角が発動し、肉体が戦闘態勢にある今だからこそどうにか耐えられるが、普段なら数秒も合わせられそうにない視線だ。その迫力に息を呑《の》みながらも、少しだけ紫に似ている、と真九郎は思った。物事をまっすぐに見つめる、大きな瞳。
「貴様、その腕の角、【崩月】の小鬼か」
「俺は……」
「名乗るな。耳が穣《けが》れる」
蓮丈の杖が、再び床を突いた。
足元が不安定になるような感覚が、真九郎を襲《おそ》う。
「貴様は主犯ではない。だが、九鳳院家に害を及ぼした罪は重いぞ」
杖で床を指し示し、蓮丈は真九郎に命じた。
「詫《わ》びろ。そこに手をつき、詫びろ。それで、命だけは助けてやる」
動かない真九郎を見て、蓮丈はまた杖で床を突く。その鋭い響きに、竜士も紫も怯えるように身をすくめていた。
これが九鳳院蓮丈の絶対権力。
何だそんなもの。
「俺が、あんたに詫びる理由はない。何もない」
真九郎を支えたのは、紫の存在。
彼女が見ている前では、自分は強者であり続けると決めたのだ。
真九郎は、喉に突き刺さった刃を手で払い除ける。
「下郎!」
リン.チェンシンの双刀が、真九郎に牙《きば》を剥いた。閃《ひらめ》く銀光を、真九郎は身を捻《ひね》ってかわしたが、肩の肉を薄くスライスされ、脇腹《わきばら》を深く挟《えぐ》られる。さらに追撃してくる双刃《そうじん》。真九郎はベッドの天蓋を掴んで引き剥《は》がし、それをリン.チェンシンに投げつけた。天蓋は一瞬で切断されるも、真九郎はその隙に紫の側に飛び移り、彼女を抱き寄せる。
真九郎が近くに来てくれたことを喜びながらも、それを微《かす》かな笑みだけで示し、紫は萎縮《いしゅく》したように口を開かない。九鳳院家は完全な男尊女卑《だんそんじょひ》。次男の竜士の前でさえ、不自由を強《し》いられた紫だ。相手が父親の蓮丈では、一言の発言権すらないのだろう。
紫を人質にとったと勘違いしたらしく、リン.チェンシンはその場から動かない。まともに戦えば、良くて相討《あいう》ちというのが真九郎の読み。それではダメだ。相討ちでは、紫を守れない。別の手段を取らなければ。
脇腹の傷を手で押さえながら深く息を吸い込み、真九郎は声を張り上げた。
「九鳳院家当主、九鳳院蓮丈殿に申し上げる!」
紫の肩を強く抱き、続ける。
「ご息女、九鳳院紫の願い、どうかお聞きいただきたい!」
そして小声で、紫を促《うなが》した。
「言ってやれ、おまえはどうしたいのか」
「で、でも……」
「大丈夫」
戸惑《とまど》う紫に微笑みかけ、真九郎が背中を叩くと、紫は頷いた。
情の欠片《かけら》もない蓮丈の眼差しに耐えながら、彼女は震える声で言う。
「お、お父様……」
蓮丈の前で願いを口にするのは、彼女にとって生まれて初めてのことか。
「わ、わたしは、わたしは……奥ノ院から出たい…です……」
弱々しいその響きを耳にした蓮丈は、即答。
「考慮する価値なし」
それが、娘の願いに対する父の答え。
九鳳院家では、女の意見など考えるまでもなく却下。
最初から期待していなかった紫は、ただ力のない苦笑を浮かべる。
真九郎は諦めない。隣に、紫がいるのだ。諦めるものか。
真九郎は笑ってやった。
思いきり、バカにするように。
「たいしたことないな、九鳳院蓮丈も。家柄だけが自慢の、小物じゃないか」
「下郎、その首切り落としてくれる!」
刃を走らせようとするリン.チェンシンを、蓮丈が手を上げて制した。
「少し待て」
蓮丈は、杖の先を真九郎の顔に突きつける。
「【崩月】の小鬼よ。今、何と言った?」
「小物、と言った」
「それは、わたしが誰か知った上での言葉だろうな?」
誇り高き九鳳院蓮丈は、己への侮辱《ぷじょく》を決して許さない。
室内の空気が薄まるような息苦しさを感じながらも、真九郎は一步も退く気はなかった。隣に紫がいる。紫が見てる。そんなカッコ悪い姿をさらせるものか。
「九鳳院蓮丈。あんたが九鳳院家の当主だというなら、この国の支配者の一人だというなら、この子のワガママくらい余裕で受け入れて見せろ! そのくらいの器を見せろ! 真の権力者ってのは、そういうことができる奴のことだ!」
「九鳳院家の女が奥ノ院で生きるのは、宿命。そのシステムは不変である」
「なら滅びろ」
「何?」
「そんなふざけたシステムがなければ存続できないなら、九鳳院なんか滅びてしまえ」
「貴様……」
「あんたが本当に大物ならな、さすが九鳳院蓮丈だと、俺を感服させるようなところを見せてみやがれってんだ!」
「……なかなか吼《ほ》えるな、【崩月】の小鬼」
蓮丈の瞳に、初めて感情の色が浮かぶ。無論、怒り。
「貴様ごときが、この九鳳院蓮丈を試そうというのか!」
天雷のような怒声《どせい》に、紫と竜士は震え上がったが、真九郎は怯《ひる》まなかった。
蓮丈から目を逸《そ》らさない。逸らしてたまるか。
「お、間に合ったな」
突如《とつじょ》として割り込んできたその声に、張り詰めていた室内の緊張感が弱まる。リン.チェンシンが部屋の入りロへ刃を向け、蓮丈もそちらへ視線を移した。
「ちょうど終盤戦か」
入り口から颯爽《さっそう》と現れたのは、柔沢紅香。肩に羽織ったコートをマントのように風になびかせながら、余裕の足取りで進む。刃を向けるリン.チェンシンには軽い笑みを投げかけ、紅香は蓮丈の隣に立った。
「お久しぶりです、九鳳院の大将」
いつものようにタバコを街えて火をつけ、紅香は挨拶《あいさつ》。
その無礼な態度に顔をしかめながらも、蓮丈は何故か咎《とが》めない。今にも斬りかからんとするリン.チェンシンを止め、まるで不出来な娘でも見るような眼差しで、紅香を軽く睨んだ。
「やはり、貴様の仕業《しわざ》だったか」
「お見通しですか」
「奥ノ院から女をさらって得をする者などおらん。【九鳳院】を敵に回すリスクが、あまりにも大き過ぎるからな。そんな無謀《むぼう》なことを企《たくら》み、実行する者がいるとすれば、よほどのバカ。例《たと》えば貴様だ」
「返す言葉もありませんね」
おどけるように、肩をすくめる紅香。
どう転ぶかわからない状況に気を引き締めながらも、二人の口調から漂う微妙な距離感を、真九郎は感じ取っていた。
紅香は、かつて九鳳院家で働いていたことがあるという。
それはどんな働きだったのか。
「柔沢紅香。貴様の目的は何だ?」
「約束です」
「約束?」
「蒼樹《そうじゅ》との、約束です」
九鳳院蒼樹。それが、紫の母親の名前。
「……くだらん」
ほんの一瞬だけ目を細め、蓮丈はそう言い捨てた。過去を閉ざすように。
「貴様、【九鳳院】と戦争でもする気か?」
「いいですね、それ。いつかはそれもいいが、でも今回はやめときましょう」
タバコを吹かしながら、紅香は言う。
「今回の件、主犯はわたしです。ところが主役は、わたしじゃない。そこの二人だ」
紅香が指差したのは、真九郎と紫。
「さあ大将、どんな決定を下します?」
「そんな誤魔化《ごまか》し、こんな茶番に、わたしが付き合うと思うか?」
「ケツの穴の小さいこと言わんでくださいよ。昔のあんたは、魅力的だったのに」
それを主《あるじ》に対する侮辱と捉《とら》えたのか、リン.チェンシンが動く。
「御前、この無礼者を切り捨てます」
そう言い終えたときにはもう、左右の刃は紅香に襲いかかっていた。しかしそれは、紅香に届かない。紅香の背後から現れた弥生の持つ手裏剣《しゅりけん》が、完壁に受け止める。二人の実力は拮抗《きっこう》するのか、交わった刃は接着されたように不動。
「くっ、柔沢の犬め!」
「犬です」
殺気をぶつけ合う二人を、紅香と蓮丈は見てもいなかった。
目の前で火花が散ろうと動じない豪胆《ごうたん》さは、紅香と蓮丈に通じるもの。
「あの【崩月】の小鬼、貴様の弟子か?」
「似たようなもんです」
「生意気な物言いが、昔の貴様を見ているようだ」
「それは失礼」
どうでもいいようにそっぽを向き、タバコをくゆらせる紅香。
その横顔を一瞥《いちべつ》し、蓮丈は微かに口元を綻《ほころ》ぽせた。
「……感傷か、くだらん」
己の感情さえも否定するようにそう言うと、蓮丈は杖を固く握る。
「わたしは忙しい身だ。こんな瑣末《さまつ》な件に、いつまでも付き合う暇《ひま》はない。決定を下す」
杖で床を突いた。
「紫」
「は、はい!」
背筋《せすじ》を伸ばし、父の言葉を待つ娘に告げる。
「おまえを、奥ノ院から出す。以上だ」
今までおとなしくしていた竜士も、これには異議を唱《とな》えた。
「お、親父、そんな……!」
「決定である。おまえも、少しは鍛えろ。未熟者が」
竜士の反論を封じ、蓮丈は背を向ける。リン.チェンシンは弥生から刃を引くと、紫に未練がましい視線を送る竜士の首筋に、刀の柄《つか》で一撃。そして昏倒《こんとう》した竜士を、肩に担《かつ》ぐ。
部屋から出て行く蓮丈の背中へ、紅香は不審そうに声をかけた。
「えらく引き際がいいですね」
「前例がないわけではない。その結果も知れている」
それは、奥ノ院で生きることこそが幸せであると信じる男の言葉か。
紫もいずれ、そのことに気づくという意味か。
最後にリン.チェンシンが扉を閉め、部屋に静寂《せいじゃく》が戻った。
何だよ、あの態度は……。
真九郎は蓮丈にもっと何か言ってやりたかったが、もはや気力も体力も限界。完全なガス欠。右肘の角は既に腕の中へと消え、それと同時に猛烈な痛みが全身に甦《よみがえ》ってきていた。【鉄腕】にやられた怪我も酷《ひど》いが、リン.チェンシンの刃による脇腹の傷が特に酷い。真九郎はポケットから針を出し、脇腹に数本刺して痛みと出血を抑える。このダメージでも平静を装えるのは、やはり紫がいるからだろう。
「真九郎!」
紫は真九郎の首に飛びつき、頬をすり寄せる。
心地良い感触。それが痛みと疲労を僅かに遠ざけてくれるのを感じながら、自分らしくない無茶をしたものだな、と真九郎は思った。
自分にこんなことができるなんて、という驚きも少しはあるのだが。
真九郎のその心情を読んだかのように.紅香はニヤニヤ笑っていた.
少しだけ憎《にく》らしい。
だいたい九鳳院蓮丈とは、どういう仲なんだか。
いつか絶対聞き出してやる、と心に決め、真九郎は紫の頭を優しく撫でた。
きっと泣いているのだろうと思ったのだが、聞こえるのは泣き声ではなく笑い声。
子供は切り替えが早い。それにしたって早過ぎる。
「……何で笑ってんだよ」
「すごいすごい! 真九郎は、お父様に勝ったのだ!」
別に勝ったわけじゃない、と真九郎は言いたいところだったが、無邪気に喜ぶ紫を見ていると、そんなに悪い結末でもないか、と思えてきた。
涙の跡が残る顔で、それでも紫は笑っていた。
なんて子供らしい笑顔。心が軽くなる笑顔。
この笑顔を見られただけで、今までの全てに帳尻《ちょうじり》が合うような気がする。
最高の報酬《ほうしゅゆう》だ。
「なあ、真九郎」
小さな手を真九郎の顔の両側に当て、紫はニコニコしながら尋ねた。
「おまえ、わたしのことが心配だったか?」
「どうでもいいなら、ここまで来ないよ」
「ちゃんと答えろ! わたしのことが、心配だったか?」
「心配だった」
「わたしが大事か?」
「大事だ」
それを聞いた紫は、会心《カいしん》の笑みを浮かべた。
長い間求めていたものを、ようやく得られた者だけが浮かべる笑み。
「喜べ、真九郎!」
心からの興奮、心からの喜び、そして心からの安堵《あんど》。
紫は、それら全てを言葉に込める。
「わたしたちは、相思相愛だ!」
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