紅(1)


片山憲太郎
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 第一章 麗しの幼姫
 第二章 ひとつ屋根の下
 第三章 崩月家
 第四章 初めてのチュー
 第五章 九鳳院の闇
 第六章 その手をのばして
 第七章 そして僕は步き出す
 あとがき
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   第一章 麗しの幼姫


 玄関のチャイムが鳴っていた、もう二時間も。
 それは断続的なものであり、たまに途絶《とだ》えると、そのかわりに玄関の扉を叩《たた》く音が数十回続く。それが止《や》むと、再びチャイムが鳴り出す。音の侵略行為。部屋の主《あるじ》である杉原《すぎはら》|麻里子《まりこ》は両手で耳を塞《ふさ》ぎ、ソファの上で身を丸め、必死にそれに耐えていた。テレビやラジオの音量を上げて打ち消すことも試したが、玄関のドアの向こうにいる男は、それと関係なく続ける。彼女が家に居るのを見計らい、音だけで責める。男はそうやって、彼女に反省を促《うなが》しているつもりなのだ。彼女が謝罪の意思を示し、ドアを開けて男を招き入れるまで、ずっと続けるのだろう。
 ここしばらくは、ずっとそうだった。
 大学に入学するのに合わせて上京し、一人暮らしを始めて半年以上経《た》つ。少し前までは、こうじゃなかった。生活はそれなりに快適で、大学のサークルで出会った、初めての彼氏もいた。柳川《やながわ》という名の爽《さわ》やかなスポーツマン風《ふう》の青年で、都会に慣れない彼女を上手《うま》くリードしてくれた。静かな田舎《いなか》街で生まれ育った彼女は、毎日の忙しさに半《なか》ば翻弄《ほんろう》されながらも、柳川との付き合いと大学生活に、とても満たされていたのだ。
 それが崩《くず》れる前兆となったのは、一通の手紙。
 ある日、部屋のポストに、差出人の名がない手紙が入っていた。中身は便箋《びんせん》が一枚だけ。文面は、ただ一言「好きだ」と書かれていた。切手が貼《は》られていないことから、本人がここまで来てポストに投函《とうかん》していったのだと想像がつき、彼女は気味の悪いものを感じて手紙を破って捨てた。
 その翌日も、ポストに手紙が入っていた。
 麻里子がゾッとしたのは、その手紙は昨日、彼女が破って捨てたものだったからだ。学校に行く前に燃えるゴミと一緒にビニール袋に入れ、マンションのゴミ捨て場に置いてきたもの。手紙の差出人はそれを探し出し、破かれた手紙をテープで貼り合わせ、再びポストに入れたのだ。まさかそんな、と動揺しながらも、彼女は手紙をハサミで細切れにすると、今度は大学の構内にあるゴミ箱に捨てた。
 その翌日もまた、手紙はポストに入っていた。
 細切れにした手紙は丁寧《ていねい》にテープで継《つ》ぎ接《は》ぎされ、「好きだ」という文字は、いびつに歪《ゆが》んでいた。麻里子は確信した。手紙の差出人は、自分を監視している。しかも、大学の構内にまで入りこんでいる。これは、テレビや雑誌でよく扱《あつか》われるストーカーというやつか。麻里子は部屋の窓のカーテンを全《すべ》て閉ざし、手紙は焼いて灰にしてから捨て、警察に相談に行った。柳川に相談するということも考えたが、こういう場合は警察に頼るのが当然だと思ったのだ。警察の対応は冷静だったが、あまりにも冷静すぎた。ストーカー関連の相談は、いちいちまともに相手をしていられないほどありふれたもの。それら一つ一つを丹念《たんねん》に調べられるような余裕は、警察にはない。ただでさえ凶悪事件が増加している昨今では、麻里子のような相談を持ちかけても、よほどのコネでもない限りは、話を聞いて注意するべき点を指摘《してき》されるだけで終わってしまうのだ。
 麻里子は粘ったが、「恋人と同棲《どうせい》でもしたら、向こうも諦《あきち》めるんじゃないの?」という投げやりな助言しかもらえなかった。あまりの冷たさに彼女は憤《いきどお》りを覚え、しかし、同棲するという案には一理あるようにも思えた。彼氏と暮らしていると知れば、さすがに手紙の差出人も諦めるのではないだろうか。柳川との交際はゆったりとしたもの。麻里子は奥手のため、未《いま》だ肉体関係もなかったが、こういう相談事を契機《けいき》に仲が進展することだってあるかもしれない。同棲するにはまだ勇気がいるが、彼が部屋に泊まってくれるだけでも効果はあるだろう。
 麻里子は、試しに柳川に話してみることにした。柳川は、好きな女性に頼られる快感に浸《ひた》りながら、自分に任せておけと、胸を叩いた。柳川は高校時代、空手部に所属していたらしく、腕には自信があると豪語。しばらく麻里子の部屋に泊まり、その男をとっ捕まえてやると息巻いた。麻里子はようやく安堵《あんど》し、柳川と同じ部屋で過ごすことにいくらかの甘い空想を抱く余裕さえ取り戻した。
 柳川の出番は、すぐに訪れた。柳川が麻里子の部屋に泊まった最初の日。深夜まで話していた二人が、そろそろ寝ようかと思い始めたとき、部屋のドアを誰かが叩いたのだ。覗《のぞ》き窓から廊下を見ると、そこにいたのは二十代後半くらいの、ひょろっとした痩《や》せ型の男つ無表情でドアを叩き続ける様子に麻里子は怯《おび》え、そんな彼女を見かねて柳川はさっそく外に出た。柳川は、まずは平和的に説得を試《こころ》み、その背中に隠れるようにしながら、麻里子は男の写真を撮った。もし逃げられても、写真があれば警察も動いてくれるのではないか、と考えたからだ。男は柳川には目もくれず、インクで黒く塗り潰《つぶ》したような瞳《ひとみ》で、麻里子の方をずっと見ていた。その口が「俺の気持ちを燃やしたな」とブツブツ呟《つぶや》いているのに気づき、それが手紙を焼き捨てたことを指しているのだとわかると、麻里子の顔から血の気が引いた。そんな彼女に柳川は離れているように言い、拳《こぶし》を鳴らしながら男に警告。柳川が戦意を見せると、男は腰の後ろに隠し持っていたナイフを引き抜き、最初の一振りで柳川の右の耳を切り落とした。そこからは一方的な展開。男は、麻里子に見せつけるように柳川の両腕をへし折り、鼻を潰し、足を砕《くだ》く。その光景に彼女は腰を抜かし、男の暴力が自分にも向かってくるのを予想したが、男はその怯える様子を見ることで満足したのか、「また来るよ」とだけ言い残して去って行った。
 そして麻里子には、ただ耐えるだけの日常が残された。
 入院した柳川はすっかり自信を失い、男の復讐《ふくしゅう》を恐れて、警察に被害届を出すことさえ拒否。とにかく早く忘れたいと言い、麻里子とも縁《えん》を切ると言った。トラブルは避けるもの。自《みずか》ら進んでトラブルに関《かか》わろうとする者などいない。ましてや、それが命の危険にさえ及びかねないものなら尚更《なおさら》だ。無理を言って上京させてもらったことを考えると、田舎の両親にも話せず、麻里子はダメもとで大学の友人たちに相談してみた。だが、ゴシップ感覚で興味を示す者はいても、助けてくれる者はいなかった。それどころか、こうなった原因は麻里子の側にあるとさえ言う者までいた。「そういうことされちゃう隙《すき》が、あなたにあったってことでしょ? そんなの自業自得じゃん」と笑い混じりに言われ、周りがそれに賛同する気配なのを察し、麻里子は学校でこの話題を口にすることを諦めた。
 本当に、そうなのかもしれない。自分が全部悪いのかもしれない。
 鳴り響くチャイム、そしてドアを叩かれる音を聞きながら、彼女はそう思った。だったらこれは罰《ばつ》だ。悪いことをした罰を、わたしは受けているのだ。神様、許してください。どうか、わたしを許してください。田舎を出るときに祖母からもらった数珠《じゅず》を握り、震える両手を合わせ、彼女は祈った。すると、どうだろう。チャイムもドアを叩く音も、ピタリと止んだ。
 しばらく待ってみたが、静かなままだった。
 聞こえるのは、時計のコチコチという作動音くらい。
 ……わたしは許されたの?
 そうでありますようにと、再び手を合わせて祈り始めた彼女の耳元で、誰かが言った。
「許して欲しい?」
 ひっ、と悲鳴を漏《も》らし、彼女はゆっくりと声の方に顔を向ける。
 インクで黒く塗り潰したようなあの瞳が、自分を見ていた。
 風になびくカーテンが、視界の隅《すみ》に映る。窓から入られたんだ、とぼんやりと理解した。ここは三階だが、外から登ってくるのが不可能な高さではない。この男なら、それくらいやる。
 男は彼女の怯える様子を観察しながら、乾いた声で言った。
「反省、した? 俺の気持ちを焼き捨てたこと、ちゃんと、反省、した?」
 彼女はコクコクと頷《うなず》いた。
 そうしなければ殺されると思った。
「俺に、許して欲しい?」
 彼女はまた頷いた。
 男は、彼女の顔にある涙の跡に指で触れる。
「だったら、言え。どうか許してくださいって、言え」
「…ゆ…ゆ…る……し……くだ………さ…」
 彼女は男に促されるままに言おうとしたが、あまりの恐怖に呼吸さえ上手くいかず、言葉が続かない。
 男の目が、飛び出しそうなほど大きく見開かれた。
「……言えないの?」
 彼女の首に、男の手がかかる。柳川の太い腕を簡単にへし折った力が、彼女の細い首を絞《し》めあげた。呼吸を強制的に止められた彼女は、手足を、バタバタと動かしながら、苦しげに口から舌《した》を伸ばす。それを見て、男は少し笑った。
「女は、みんな、そうだ。痛い目を見ないと、わからない。傷つかないと、理解しない。たまらなく、愚《おろ》かだ」
 男は首から手を放すと、激しく咳《せ》き込む彼女を気にせず、ポケットからガムテープを取り出した。ああ、これで縛《しば》られるんだな、と彼女は悟った。これからの自分の運命も。この男に拉致《らち》され、どこかに閉じ込められるのだ、きっと。
 そして壊れるのだ、わたしは。
 こいつに壊されるのだ。
 もはや抵抗する気力も撫くした彼女の手足を、男はガムテープで縛り始めた。そうして動けなくしてから彼女の顎《あご》を掴《つか》み、自分の方へと顔を向けさせる。
「謝る気に、なった?」
 彼女は口をパクパクさせたが、声は出なかった。
 男は、顎を掴む手に力を込める。
「謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ」
 麻里子の瞳から涙が溢《あふ》れ出し、その口から小さな声が漏れようとしたとき、歪み始めていた何かを矯正《きょうせい》する鮮烈な声が聞こえた。
「何も悪いことしてないんだから、あなたが謝ることないですよ」
 男の視線が麻里子から逸《そ》れ、彼女もその声の主の方へと目を向ける。
 部屋の入り口に、一人の少年が立っていた。
 いつも教室の隅で小説でも読んでいそうな、おとなしい顔立ち。背は高くないが、低くもない、平均的な体格。学校帰りなのか、学生服姿で、脇《わき》には鞄《かばん》を抱えていた。
 麻里子は前に一度だけ、この少年と会ったことがある。
 少年は軽く頭を下げ、困ったような顔で言った。
「遅れてすいません。本当はもっと早く来るつもりだったんですけど、準備に少し手間取《てまど》りまして。玄関の鍵《かぎ》、勝手にあけて入ったことも謝っておきます。ただ、あの鍵は早く替えた方がいいですよ。安物の万能《ばんのう》鍵でもあきますから」
「誰、おまえ?」
 男は麻里子から手を放し、少年をじっと観察していた。
 少年は、平然と答える。
「紅《くれない》|真九郎《しんくろう》」
「くれない、しんくろう……?」
 男は麻里子の方に向き直ると、再び彼女の顎を掴んだ。
「こいつ何?」
「……し、真九郎くん、この男よ!」
 恐怖で萎縮《いしゅく》していた気力を奮《ふる》い立たせ、麻里子はやっとの思いで叫ぶ。
「この男が、ずっと、わたしを……!」
「何かって訊《き》いてんだろ!」
 男は拳を振り上げ、麻里子は目をつぶったが、予期した痛みは襲《おそ》ってこなかった。真九郎の投げた学生鞄が、猛烈な勢いで男の腕に当たる。男が苦鳴《くめい》を上げ、麻里子から手を放した隙に、真九郎は彼女を自分の後ろへと下がらせた。
「すぐ終わります」
 真九郎はそう言ったが、麻里子は彼の足が微《かす》かに震えていることに気づき、不安になる。だからといってこの状況では迂闊《うかつ》に動くこともできず、数珠を握りながら祖母に習った念仏《ねんぶつ》を唱《とな》えた。
 男は真九郎の登場に驚きはしたのだろうが、それでも冷静。真九郎から距離を取るように後退し、腰の後ろからナイフを引き抜いた。長さ三十センチはある刃を見せつけるようにして構え、男は真九郎に接近。刃物を前にすれば、誰でもいくらか動きが鈍《にぶ》るもの。だが真九郎は、突き出された刃先を難なく手の甲《こう》で逸らし、男の股間《こかん》を蹴《け》った。よほど的確な位置を蹴ったのか、それだけで男の動きは止まり、手からナイフを落とす。それでも股間を両手で押さえながら男は数步進み、しかし真九郎にも麻里子にも辿《たど》り着けず、前のめりに倒れた。麻里子がそっと近づいてみると、男は口から泡《あわ》を吹き、完全に失神。
 真九郎は、床に落ちていたガムテープで男の手足を縛り上げてから、麻里子に言った。
「取り敢《あ》えず、こんな感じで」
「終わった……の?」
「いえ、まだ仕上げが残ってます」
 真九郎は、男の体を肩に担《かつ》ぎ上げた。たいして体力がありそうには見えなかったが、自分より大きい男を軽々と玄関まで運ぶ。そして、携帯電話で誰かと連絡。しばらくすると、玄関に数人の男たちが現れた。いずれも人相が悪く、麻里子は真九郎に騙《だま》されたのかと疑ったが、苦笑で否定された。
「驚かしてすいません。えーと、依頼は身の安全の確保、でしたよね?」
「そう、だけど……」
「そのためには、この男を何とかしなきゃならない。こちらのみなさんは、その仕上げに協力してもらうために呼びました。話はもうついてますから、ご安心を」
 真九郎は気絶した男の首筋に親指を当て、ぐっと押し込む。たちまち男は覚醒《かくせい》し、自分の置かれた状況を見て暴れるかに思えたが、意外にもおとなしかった。
「………諦めないぞ」
 麻里子を見つめながら、男は声に怨念《おんねん》を込めるようにして言う。
「俺は、諦めないそ。絶対に、君を、手に入れてやる」
 男は次に、真九郎に目を向けると、口元に嘲笑《ちょうしょう》を浮かべた。
「俺を、どうする?警察か? リンチか?何をしても、無駄だ。おまえのことは、忘れない。俺は、しつこいそ。何年かかっても、追い詰めて、後悔させてやる。させてやる」
 男のその言葉が本気だとわかり、麻里子はいつか自分と真九郎に訪れる破滅を予感したが、真九郎は特に気にしたふうでもなかった。
「あんた、多渕《たぶち》|薫《かおる》だよな?」
 男は答えなかったが、真九郎は続ける。
「今時は、写真一枚あれば調べがつくよ。それで、あんた、暑いのは平気な方?」
「……何?」
「向こうは暑いから大変だろうなあ、とか思ってさ」
 真九郎は、玄関の外で待機していた男たちに指示を出す。男たちは多渕の口に猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませると、そのまま数人で担ぎ上げた。いったいどうするつもりだ、と困惑《こんわく》する多渕に、真九郎は親切に教えてやることにした。
「実は、とある外国で、ダムの建設工事がある。ところが、作業員がなかなか集まらないらしくて。娯楽《ごらく》施設とか何にもない場所で、工期は最低でも十年。その後で他の地区の補完工事が何ヵ所もあって、一度日本を離れたら二十年以上は帰って来れないそうだし、希望者が少ないのも無理はない。で、その筋《すじ》の業者さんがやる気のある労働力を欲しがっててさ、俺があんたを推薦《すいせん》したわけ。あんた、ストーカーしてたくらいだから一応根性あるだろ?体力も十分。まあ、頑張ってきなよ。貯金もできるし、現地の人からは感謝されると思うよ」
 多渕は顔面《がんめん》蒼白《そうはく》になった。自分を担ぐ男たちの風貌《ふうぼう》から、真九郎の話が冗談ではないと気づいたのだろう。これから数十年、自分は労働力として消費される。いや、生き延びられるかどうかも疑問だ。この種の工事で、しかも、裏の業界が人を集めるような場合、苛酷《かこく》な労働の果てに使い捨てられるのが普通。これは死刑宣告にも等しい。
 多渕は今頃になって命|乞《ご》いをしたが、生憎《あいにく》と猿轡のせいで、誰にも意味が伝わらなかった。
 お達者《たっしゃ》で、と真九郎は手を振って多渕を送り出す。
 玄関のドアが閉まっても、麻里子はしばらく呆然《ぽうぜん》としていた。
 これで、終わり?
「あ、あの、今の話、本当なの……?」
「本当です」
 真九郎の頼んだ業者は、日本にいられなくなった犯罪者なども多く雇《やと》い入れるところで、一度雇い入れた人間は仕事が終わるまで決して逃がさない、と真九郎は麻里子に説明。
 麻里子としては、いい気味だという気持ちと、やり過ぎではという気持ちが半々だったが、それを察したのか、真九郎はさらに説明を続ける。知り合いの情報屋に調べてもらったところ、多渕薫は前科二犯。半年前に出所したぼかりで、以前に犯した二つの事件は、どちらも暴行と監禁。被害に遭《あ》った女性二人は心身共に深い傷を負い、未だに入院中。要するに常習犯なのだ。警察に引き渡しても、数年で出所し、復讐を企《たくら》むか、別の獲物《えもの》を捜す可能性が高い。それならばと、真九郎は独自に対応することにしたのだという。
「万が一脱走したときは、業者から連絡が入る手筈《てはず》になってます。そうなったら、俺が必ず捕まえて、今度は絶海の孤島にでも放置してやりますよ」
 どこまで本気なのかわからないが、真九郎はそう言った。
 ようやく安堵した麻里子は、真九郎という少年を改めて見つめ直す。
 大学の友人たちに相談した際、その一人が何気なしにしてくれた噂《うわさ》話。多少危険なことでも引き受けてくれる、いわゆる揉《も》め事処理屋がいるというその話に麻里子は飛びつき、そうして真九郎とコンタクトを取ったのが数日前。料金から考えても気休め程度にしかならないだろうと思い、依頼したことを半ば忘れてさえいたくらいなのに、まさかこれほど完壁《かんぺき》に処理してみせるとは。
「では、依頼を完了したので料金をいただきます」
「ありがとう」
 麻里子は嬉《うれ》しさのあまり真九郎を抱きしめそうになったが、それを堪《こら》え、依頼料を封筒に入れて渡した。受け取った真九郎は、中身を確認してから数枚を抜き取り、麻里子に返す。「ギリギリのタイミングでしたからね」
「えっ、でも……」
 麻里子としては、感謝の気持ちを考えれば十倍の額を請求《せいきゅう》されても文句はないのだが、真九郎はさっさと封筒を鞄にしまう。
「それじゃ」
「あ、あの……」
 もう少し会話したいと麻里子は思ったが、真九郎は軽く手を振り、玄関のドアの向こうへと消えてしまった。これが、揉め事処理屋というものか。
 閉じられたドアを見て、麻里子は力が抜けたように床に腰を下ろした。窓の外には赤く染まった空。今が夕方なのだと、初めて気づく。
 ようやく静寂《せいじゃく》が戻った室内。取り戻した悪撒。窓から吹き込む冷たい風を感じていると、死さえ覚悟した絶望も、何処《どこ》か遠くに消えてしまう。
 この街は怖い、と思う。でも、まだこの街にいようと思う。
 恐ろしい悪意もあるけれど、それに負けない力もあると知ったから。
 麻里子は、その手にまだ数珠を握っていることに気づき、久しぶりに祖母の声が聞きたくなった。しばらく連絡してないので、きっと心配していることだろう。いろいろ話したいこともある。
 麻里子はドアにしっかり鍵をかけると、田舎に電話することにした。

 

「……まだ高いよなあ」
 仕事を終えた帰り道。駅前のスーパーで夕飯の買い物をした真九郎は、途中の電気屋で、炬燵《こたつ》と炬燵|布団《ぶとん》のセットが二割引きで売られているのを見つけ、その前で迷っていた。これからの季節、炬燵があればありがたいが、頭の中で数字を並べ、結局は諦めた。そのかわりに、近くの自販機でタバコを一箱購入。銘柄《めいがら》はいつものやつ。それをポケットに入れ、片手に買い物袋をぶらさげながら、真九郎は家路につく。
 商店街を吹き抜ける冷たい風は、冬の到来を感じさせるもの。元気に走り回る小学生の集団の中には、首にマフラーを巻いた者もいる。主婦たちが少し急ぎ足のように見えるのも、日が暮れると今よりもっと冷えることを懸念《けねん》してのことか。まだ十一月だが、雪が降ってもおかしくはない寒さ。電柱に繋《つな》がれて飼い主を待つ犬も、寒さに身をすくめているようだった。
 真九郎が高校生になってから、最初の冬。つまり、揉め事処理屋を始めてまだ一年にも満たないということ。それなりに上手くやれてるはずだ、と真九郎は思う。
 多少の感謝と多大な憎悪《ぞうお》といくらかの謝礼を得ながら、何とか続けられている。
 八年前からすれぽ想像もつかない、今の自分の姿。
 ふと夕焼け空を見上げると、呑気《のんき》な鳴き声を響かせながら飛んで行くカラスの群れ。それは昔と変わらない光景。マスコミはしきりに環境破壊の深刻さを警告するけれど、本当は、人間が心配するほどではないのかもしれない。まあ、自分たちの存在が与える環境の変化にまで気を配る生物は、人間だけに違いないだろうけれど。
 そんなことを考えつつ步いていた真九郎は、今日の新聞を読んでないことを思い出し、コンビニに立ち寄ることにした。サボり癖《ぐせ》の多い店員ばかりで、全紙面を熟読しても文句を言われない店。新聞を取ってない真九郎には、良い店である。紙面を埋め尽くすのは、相変わらず陰欝《いんうつ》な事件が大半だった。自分より先にトイレに入ったから、という理由で母親を刺し殺した中学生の息子。電車内で泣いていた赤ん坊を母親の手から奪い取り、窓から放り捨てて殺したサラリーマン。注意を無視したという理由で、小学生を撃ち殺した警察官。五歳以下の幼児だけを狙《ねら》った連続|強姦魔《ごうかんま》や、塾帰りの子供たちをナイフで襲った麻薬中毒者などもいる。
 あまりにも凄惨《せいさん》霞な最近の世相に、真九郎が思わず「神様っていると思うか?」と訊くと、幼《おさな》なじみの村上《むらかみ》|銀子《ぎんこ》はこう答えた。
「いるに決まってんじゃない。いるからこそ、まだ『この程度』なのよ。かろうじて世界は成り立ってる。神様がいなかったら、こんなもんじゃ済まないわ」
 ならば神様は、もう手一杯なのかもしれない。
 だからあのときも、助けてくれなかったのか。
 真九郎は気分が重くなるのを感じ、新聞をラックに戻すと、コンビニを出た。途端《とたん》に吹きつけてくる風の冷たさに閉口しつつ、商店街を抜け、並木道を通っていく。
 真九郎の住む五月雨《さみだれ》荘は、駅から徒步十分ほどの場所にある古いアパート。豊富な樹木に囲まれ、そこだけ時間の流れが違うかのように、ひっそりと存在している。鉄筋コンクリート製
の二階建て。部屋は1号室から6号室まであり、風呂は無く、トイレは共同。
 古い石造《いしづく》りの門を通り、わりと広い敷地に入ると、そのすぐ左側には大きな木。樹齢が想像もつかないほどの立派《りっぱ》な様相は、この辺《あた》りの植物の主かと思わせる貫禄《かんろく》だ。
 真九郎が視線を上に向けると、そこには知り合いがいた。太い枝に腰を下ろし、幹に背中を預けた一人の女性。その服装は、頭の上から足のつま先まで黒ずくめ。つばの広い黒の帽子、黒|革《かわ》の手袋、黒いブラウス、黒いロングスカート、黒いハイヒール。拳ほどのサイズのドクロが付いた首飾りが、唯一《ゆいいつ》のアクセサリー。膝《ひざ》の上に黒猫を乗せた彼女の姿は、ほとんど魔女にしか見えない。
 老木に寄り添いながら夕闇《ゆうやみ》を見つめる、黒き魔女。
「どうも、闇絵《やみえ》さん」
 真九郎が声をかけると、それまで遠くを見ていた黒い瞳がこちらへと向けられた。生気が感じられず、それでいて妖艶《ようえん》な美を漂わせる顔は無表情だったが、真九郎の姿を認めて、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「やあ、少年。仕事帰りかい?」
「はい」
「働く姿は美しい。頑張りたまえ」
 芝居《しばい》がかった口調だが、彼女が言うと違和感がない。存在そのものに違和感があるからだろう。初対面の際、真九郎が闇絵に抱いた感想は、このアパートの地縛霊《じばくれい》。たまたま彼女を目撃した近所の学生が、悲鳴を上げて逃げ出したという話もあるほどで、とにかく浮世《うきよ》離れしている。
 闇絵は、五月雨荘4号室の住人であり、このアパートで最も妖《あや》しい人物だ。職業も年齢も一切不明だが、夕暮れどきにはよく木の上にいる。
 真九郎がポケットからタバコを取り出すと、闇絵の膝にいた黒猫が身軽な動作で地面に飛び下り、足にじゃれついてきた。闇絵の飼い猫で、名前はダビデ。その頭を撫《な》で、真九郎はタバコを渡してやる。ダビデは器用に箱を口に咥《くわ》え、再び飼い主の膝へと戻って行った。
「いつもありがとう、少年」
 闇絵は箱から一本抜き出し、それを街えてマッチで火をつける。ライターではなくマッチを使うのは、彼女のこだわりらしい。使い終えたマッチは、彼女が軽く手を振ると手品のように消えた。黒い革手袋に包まれた指でタバコを挟《はさ》み、闇絵は満足そうに紫煙《しえん》を吐き出す。それは風に乗り、一筋の流れとして空気に溶けていった。
 真九郎はタバコがあまり好きではなく、目の前で吸われると不愉快《ふゆかい》に思うこともあるのだが、闇絵と、あともう一人に関してだけは例外だった。その人間のスタイルとして定着している場合、むしろ吸ってない方が不自然に感じることもある。
「前から訊こうと思ってたんですけど、そのドクロって本物なんですか?」
「これかい?」
 首から下げたドクロを、闇絵は夕陽《ゆうひ》に透かすようにして持ち上げた。
「これはな、わたしの愛した男の一部なんだ」
「えっ?」
「正義感の強い奴《やつ》でね。世の中の真実を伝えたいと言って、フリーのジャーナリストになり、世界中を飛び回っていた。帰国しては、珍《めずら》しい話をよく聞かせてくれたものさ。最期《さいご》は、呆気《あっけ》なかったよ。紛争の起きた途上国で取材中に、地雷を踏み、片足が吹き飛ばされたところを、ゲリラに撃たれて死んだ。遺体は現地で焼かれてしまったが、遺言で、わたしに送られてきてね。その一部を、身につけることにしたのだ。わたしなりの弔《とむら》いだな。こうしていれば、いつも彼の魂《たましい》とともにあるような気にもなれる」
「そ、そうだったんですか……。じゃあ、いつも黒い服を着てるのも?」
「そう、喪服《もふく》のつもりさ」
「すいません、変なこと訊いてしまって……」
 すまなそうにする真九郎を見下ろしながら、闇絵はゆったりと紫煙を吐き出した。
「今作ったにしては、まあまあの話だろ?」
「は?」
「成人男子の頭蓋骨《ずがいこつ》がこのサイズか?君、常識で考えなさい」
 言われてみればその通りなのだが、闇絵に淡々《たんたん》と語られると、何となく鵜呑《うの》みにしてしまうのが不思議だった。どんな変なことでも闇絵ならあり得るな、という気がするからだろう。
「……あの、じゃあ、それは」
「昔、海外に行ったときに露店商《ろてんしょう》で見つけたものさ。値切りに値切り、店主がもうやめてくれとわたしに泣いてすがりつくまで値切ってから購入した。良い思い出だな。気に入っているので、こうして身につけている。サルの胎児《たいじ》の頭蓋骨を加工したものだろう」
「サルですか……」
「ちなみに、わたしがいつも黒を身につけているのは、純粋なファッションだ。黒い服が流行《はや》ったきっかけの一つは、第一次大戦後のパリで、未亡人が喪服のまま売春婦になった姿がとても魅力的だったから、という説がある。これは、傷心の女性は男から見てそそられる、ということであり、黒は女性の美しさを際立《きわだ》たせるということでもある。そして、女性はいつどんな心境でも美しくありたい、ということかな」
「はあ、なるほど……」
 何だかよくわからなかったが、真九郎は曖昧《あいまい》に頷いた。
 闇絵が真実を煙に巻くのはいつものこと。深く考えても仕方がない。
 買い物袋に生鮮食品が入っているのを思い出し、真九郎は部屋に帰ることにする。
「じゃあ俺、そろそろ……」
「少年、女難の相が出てるな」
「女難の相?」
 真九郎は聞き返したが、闇絵の瞳は既《すで》に夕焼け空へと戻され、もうこちらを見てはいなかった。彼女はいつも、重要なことをさらっと言う、まるで独《ひと》り言《ごと》のように。たまたま思いついたこと、感じたことをそのまま口に出してるだけなのかもしれないが、意外に当たるので侮《あなど》れない。
 女難の相ね……。
 思い当たる節《ふし》はないので、今のところはどうしようもないだろう。
 真九郎はそれを頭から追い出し、共同玄関で靴を脱ぐと、買い物袋を揺らしながら5号室に向かった。

 

 床板を軋《きし》ませながら階段で二階に上がり、曇《くも》りガラスに5号室と記されたドアの鍵を開け、真九郎は部屋の中へ。買い物袋の中身を冷蔵庫に入れてから、学生服を脱ぎ、私服に着替える。そして窓を全開にし、部屋の空気を入れ換えた。窓から差し込む夕焼けの赤さに目を細めながら、冷たい風をしばらく浴びる。
 部屋は六畳一間。小さな台所はあるが、家具は最低限しか揃《そろ》っておらず、そのほとんどが貰《もら》い物か拾い物。真九郎は物欲が弱い方であり、現状に不満はない。欲しいものと言えば、暖房器具くらいだ。
 アパートを囲む樹木が空気を浄化するのか、吹きこむ風からは排気ガスの臭《にお》いがしない。差の空気を胸一杯に吸い、ゆっくり吐き出してから、真九郎は食卓兼勉強机でもあるちゃぶ台を用意し、その上に今日の報酬《ほうしゅう》とソロバン、そして家計簿用のノートを置いた。財政事情は、裕福とは程遠いが、酷《ひど》い貧乏《びんぽう》でもないというところ。衣食住を確保できているだけ、真九郎はましな方だろう。社会情勢の悪化は、貧富の差が広がっていることも原因の一つと聞く。一台一億円もする車を気軽に買う者もいれば、食うのに困って人を殺してしまう者もいる。平等なんかない。当たり前だ。平等とは、要するに同じということ。他人と自分は違う。自分はきっと、他人のようにはなれない。そして他人も、自分のようにはなれない。
 今回は赤字か、と思いながら真九郎がソロバンを弾《はじ》いていると、誰かが部屋のドアをノックした。五月雨荘の各部屋には貧弱な鍵しかないが、防犯という意床では鉄壁。泥棒《どろぼう》も強盗も訪問販売も新聞の勧誘も宗教の勧誘も、絶対にあり得ない。この五月雨荘は、それらとは無縁の場所。そういう暗黙の了解が成り立つ場所。ここを訪れる者は、住人の知り合いか、住人に確かな用事がある者だけだ。
 真九郎はノートに鉛筆を挟んで閉じると、腰を上げてドアに向かった。
「どちらさん?」
「わたしだ」
 名乗る必要はない、という口調。
 それを許される人間が、そんな傲慢《ごうまん》を許される人間が、この世には極《ごく》少数だが存在する。
 真九郎は慌《あわ》ててドアを開き、そこで動きを止めた。
 知り合ってもう長いのだが、いつ会っても数秒間は見惚《みほ》れてしまう。一流モデルが裸足《はだし》で逃げ出す美貌《びぽう》と、抜群《ばつぐん》のプロポーション。ワインレッドのスーツに、肩に羽織《はお》ったトレンチコート。口にタバコを街えた姿は、さながら暗黒街を闊步《かっぽ》するマフィアの若き女ボスとでもいうべき貫禄。それでありながら、顔にはまるで近所のガキ大将のような微笑《ほほえ》みを浮かぺているのが、彼女の特徴だ。
 彼女の名前は、柔沢《じゅうざわ》|紅香《べにか》。思春期の輝きを上手に上手に精錬《せいれん》していけば、やがてこういう人間になるのではないか、と真九郎は思う。
 自然と頭が下がった。
「お久しぶりです、紅香さん」
「元気そうだな」
 堅苦しい挨拶《あいさつ》はよせ、と紅香は苦笑しながら手を振る。
 彼女を部屋に招き入れようとした真九郎は、そこでようやくあることに気づいた。紅香の羽織るトレンチコートの中に隠れるようにして立っている、小さな存在。
 それはまだ小学生にもなっていないような、幼い女の子だった。

 

 部屋に入るとすぐに、紅香の背後にいた人物が彼女のトレンチコートを脱がせた。その人物がトレンチコートを丁寧に畳《たた》む様子を見て、真九郎は目を丸くする。
「……いたんですか、弥生《やよい》さん」
「いました」
 言葉少なにそう答えたのは、紅香の部下である女性、犬塚《いぬづか》弥生。若くて美人なのだが、しばらく目を離すとすぐに記憶から消えてしまうような、不思議な印象を彼女は持っている。派手《はで》な紅香の側《そば》にいることもその一因であろうが、声を出すか、紅香が接しなければ、まず誰にも気づかれないほど気配が薄い。真九郎が以前に訊いたところでは、弥生の実家は古い忍《しのび》の家系だとか。冗談を言う性格ではないので、本当だろう。
 紅香の背後に控《ひか》えるようにして立つ彼女の手には、大きな旅行鞄が一つ。
 今日の訪問と関係あるのかな、と思いながら真九郎は台所でお湯を沸かす。弥生は他人から渡された飲食物を口にしないので、三人分のお茶を用意。それをちゃぶ台の上に置き、かしこまるように正座しながら、真九郎は紅香の言葉を待つ。
 一度お茶に口をつけてから、紅香は話を切り出した。
「この子を守ってやってくれ」
 前置き無しに、いきなり本題。
 真九郎は、紅香の隣に座る少女を改めて見つめる。一瞬、現実感を失いそうになった。
 まるで、絵本から抜け出してきたかのような少女なのだ。それも、王子様とお姫様が出てくる外国の童話。少女が着ているのが見事なドレスであることも理由だが、無論、それだけではない。長い髪も、細い手足も、薄い唇《くちびる》も、伏せられた眼差《まなざ》しも、白い肌《はだ》も、全てに気品があり、とにかく整い過ぎている。幼女趣味など微塵《みじん》もない真九郎でさえ目を奪われる可憐《かれん》さは、末恐ろしいほど。
 少女が紅香と並んだ姿は、女|盗賊《とうぞく》に誘拐《ゆうかい》されたお姫様の図、というところか。
 真九郎は気を取り直し、紅香に視線を戻す。
「……つまり、仕事の依頼ってことですか?」
「そういうこと」
 紅香は軽い口調だったが、聞いている真九郎は心臓の鼓動《こどう》が速まるのを感じた。彼女は真九郎にとって、ただの知り合いではない。恩人であり、大先輩なのだ。
 柔沢紅香は、真九郎と同じ揉め事処理屋。その実力は業界最高クラスといわれる存在。活躍の場は全世界規模で、武勇伝は数知れず。真九郎のような駆け出しの新人から見れば、まさに天上人《てんじょうびと》。そんな彼女からの依頼なのだ。真九郎が緊張するのも、無理はなかった。
 気持ちを落ち着けながら、真九郎は考える。
 多忙な紅香は、自分に来た依頼を他の同業者に回すことがたまにある。もちろん、それは紅香が信頼できる相手に限定。だから、彼女からこういう話が来たことは素直に嬉しい。
 しかし、その内容が問題。
 そもそも、この少女は誰なのか?
「こちらは九鳳院《くほういん》|紫《むらさき》。今年で七歳になる」
 真九郎の疑問を察して、紅香が先回りするように紹介した。
 吸い終えたタバコをちゃぶ台の上に置かれた灰皿に押しつけ、紅香が新たな一本を銜えると、慣れた動作で後ろから弥生が手を伸ぽし、ジッポライターで火をつける。
 それを見ながら、真九郎は尋ねた。
「……あの九鳳院ですか?」
「他にあるか?」
 それはそうだ、と納得し、真九郎は再び少女を見つめる。
 九鳳院を名乗る家系は、この国に一つだけ。その資産は世界全体の数%に及ぶとさえいわれる大|財閥《ざいばつ》、九鳳院家。名家中の名家だ。
 この少女が、そんな一族の人間だというのか。真九郎にじっと見られているのに気づいても、九鳳院紫は一度も視線を上げなかった。行儀《ぎょうぎ》良く座り、眼差しは静かに伏せられている。その口は閉ざされ、何も語らない。
「……この子を、俺に守れと?」
「そうだ」
「誰に狙われてるんです?」
「言えない」
「狙われる理由は?」
「言えない」
「どうして俺に?」
「適任と思ったから」
「いや、だってそれ、九鳳院家からの依頼なんですよね?紅香さんの方がずっと……」
「わたしは子供が苦手だ」
「そんな……」
「それに、ここなら安全だろ?」
「まあ、それはたしかに……って、ちょっと待ってください。まさかこの部屋で、この子を預かれってんですか?」
「問題あるか?」
「あるでしょう……」
 真九郎の困惑をよそに、紅香は涼しい顔でタバコを吹かしていた。
 詳《くわ》しい事情を説明せずに、こんな幼い少女の護衛《ごえい》をしろという。しかもその少女は、あの九鳳院家の人間。普通なら一考する余地すらないほど胡散臭《うさんくさ》い依頼であり、すぐに断るのが無難。だが、相手が他でもない紅香とあれば話は別だ。真九郎は、揉め事処理屋としての紅香を尊敬しており、恩義もある。真剣に検討しなければならない。
 参ったなあ……。
 返事をするまでの猶予《ゆうよ》を得るため、真九郎は湯呑《ゆの》み茶碗《ちゃわん》を持ち、腰を上げて台所に向かった。薬缶《やかん》に残ったお湯を湯呑み茶碗に注ぎ、一息で飲み干す。熱い液体が食道を通る感覚を、目を閉じて味わう。活発になった血流が脳にまで影響を及ぼし、いくらか頭が回転するような気がした。
 冷静に考えてみる。
 ボディガードは初めての経験だ。自分と保護対象、単純に考えて、守る苦労が二倍になる困難。しかも、事態に対して常《つね》に受け身。生半可《なまはんか》な覚悟ではこなせない。弥生が持ってきた旅行鞄は、おそらく九鳳院紫のための荷物。真九郎は依頼を引き受けると、紅香は思っているのか。この部屋で、子供と暮らせというのか。
 真九郎はちゃぶ台に戻り腰を下ろしたが、結論を出せず、もう一度少女の方を見た。
 思わずドキリとした。
 九鳳院紫が、初めて視線を上げ、こちらを見ていたのだ。
 幼い瞳は、うっすらと涙で濡《ぬ》れていた。その純粋な輝きに、真九郎は目を離せなくなる。彼女は七歳。それくらいの頃の自分は、今と比べて多くの言葉を持たなかった。だから何かを求めるときは、その意思を瞳に込めるしかなかった。助けて欲しいのに、その苦しみがあまりに大きすぎて言葉にできず、黙って見つめるしかなかった。相手はそれだけでわかってくれると、自分の気持ちを理解してくれると、助けてくれると、そう信じていた。子供の幻想。都合の良い考え。でも、真九郎の家族は、ちゃんと受け止めてくれた。いつも助けてくれた。そのときの喜びを、真九郎は忘れてはいない。
 ならぽ今、自分にできることは一つ。
「どうする、真九郎?」
「引き受けます」
 真九郎の返事を聞き、紅香は満足げに微笑み、九鳳院紫は驚いたように目を見開く。真九郎が無言で頷いて見せると、九鳳院紫は恥《は》ずかしそうに俯《うつむ》いた。
 さて、これから大変だ……。
 抱える苦労は、今までの仕事で最大。しかし、真九郎は楽な人生を望んで揉め事処理屋になったわけではない。それに、何やら気分は良かった。それは多分、この選択が正しかったからだろう。
 真九郎はそう思った。
 このときは。

 

 紅香と弥生を途中まで送ることにした真九郎は、九鳳院紫を部屋に残し、外に出た。
 既に日は暮れ、辺りは闇の色が濃い。五月雨荘を囲む樹木が昼間よりも一層巨大に、そして活性化しているように見えるのは、真九郎の錯覚《さっかく》だろうか。
 風に揺れる葉音を聞きながら、真九郎は紅香たちと門まで步く。
「でも、ホントに、どうして俺のところに?」
「不満か?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「わたしはな、大事なことは直感で決めることにしてる。理屈は抜き。今までずっとそうしてきた。で、今回の件は、おまえがいいんじゃないかと思ってね」
「……どういう意味です?」
 何やら含みがありそうな、紅香の言葉。
 護衛として期待しているというのとは、少し違う気がした。
「それは言えない」
 タバコを街えたまま、紅香はニヤリと笑う。
 この秘密の多さ。やはり胡散臭い依頼だ。
 それでも引き受けた以上、最善を尽くすしかない。
「真九郎、おまえには期待してるよ。こればっかりは、わたしではどうにもならん」
「また悪巧《わるだく》みか」
 門の側にある暗闇から、そんな声が聞こえた。真九郎がそちらへ向くと、まずは小さな赤い光点が見え、続いて暗闇から滲《にじ》み出るようにして人影が姿を現す。赤い光点は、タバコの火。人影は、タバコを衙えた闇絵。全身黒一色の服装は、周囲に広がる夜の闇に半ば溶け込んでいるかのようだった。
 気づいていたのか、闇絵の登場に紅香は驚かない。
「相変わらず陰気だな、闇絵」
「相変わらず派手だな、紅香」
 真九郎も詳しく訊いたことはないが、この二人は古い知り合いらしく、顔を合わせると必ず嫌味のようなものを交換する。雰囲気《ふんいき》は正反対ともいえる二人だが、容姿の端麗《たんれい》さ、そして口にタバコを街えたところだけはそっくりだった。
「紅香、子供はどうした?」
「知らん。適当にやってるよ」
「哀《あわ》れだな」
「何が?」
「おまえみたいなのが母親という事実が、哀れだ」
「ケンカ売ってんのか」
 軽い睨《にら》み合いが始まり、いつもなら真九郎はただ観戦するだけなのだが、今日は気になることが一つ。
「……紅香さん、子供いるんですか?」
「いるよ」
 あっさり肯定されたが、彼女に憧《あこが》れがある真九郎にとってはわりとショックな事実。紅香の見た目の年齢は二十代後半くらいで、その私生活は知らないが、まさか子持ちとは思わなかった。付き合いは長いが、今までそういう話題が出たことはなかったのだ。紅香と母親のイメージは、まるで合わない。こんな人に子育てなんてできるのか、いろいろと質問したかったが、野暮《やぽ》なような気がしてやめておく。
「そんじゃあ、あとはよろしく頼む、真九郎。近いうちにまた連絡するよ」
 はい、と真九郎が頷く側で、闇絵は紅香を冷ややかに見つめていた。黒い革手袋に包まれた指でタバコを挟み持ち、その火先を紅香に向ける。
「おまえが修羅《しゅら》の道を步むのは勝手。どうなろうと知ったことではないが、前途ある少年を、それに巻き込むものじゃない」
「今回は善行さ。わたしにしては、珍しくな」
 紅香は苦笑を浮かべると、少し湿った声と紫煙を、一緒に吐き出す。
「古い、約束でね……」
 どういう意味なのか気になったが、それについても真九郎は訊かなかった。何でも訊けて、何でも答えをもらえたのは、子供時代だけだ。今はもう、答えは自分で見つけるしかない。見つからないなら、自分の知る範囲で折り合いをつけるしかない。それがどれくらい上手くできるかが大人である尺度だと、真九郎は思う。
 紅香と弥生を見送った真九郎は、九鳳院紫のことを闇絵に話しておこうかと思ったが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。まるで、もう用が済んだので夜の闇に同化してしまったかのように。かすかに残るタバコの香りだけが、彼女がそこにいた証拠。
 それを嗅《か》ぎながら、まあ明日でもいいか、と真九郎は部屋に戻ることにした。
 これからしばらくの間、同居人が一人。しかも幼い女の子。
 あんなお姫様みたいな子に、どう接したらいいのだろう。誰かに命を狙われているなら、さぞかし不安だろうし、ここは壊れ物を扱うように、優しくしてあげるべきか。
 真九郎が部屋に戻ると、九鳳院紫はさっきと同じように、行儀良く座ったままだった。部屋の主である真九郎を、待っていたのか。
 真九郎は、なるべく優しい口調を意識しながら挨拶。
「これからよろしくね」
 彼女の頭を撫でようと伸ばした真九郎の手は、しかし、ピシャリと跳《は》ね除《の》けられた。
「気安く触るな一般|庶民《しょみん》」
 それが九鳳院紫の放った第一声
 …………あれ?
唖然《あぜん》とする真九郎の前で、紫はすっと立ち上がり、自分用の荷物が詰まった旅行鞄のところへ移動。そして鞄を開くと、着ていたドレスをいきなり脱ぎ始めた。まるで、邪魔なものを取り払うかのように。
 この場合どう声をかけていいのか、それ以前に今の紫の言葉は幻聴だったんじゃないか、などと真九郎が混乱しているうちに、彼女はさっさと着替えを終えた。これまた、絵本から抜け出したかのような姿だった。ただし、お姫様の出てくる童話ではなく、ワンパク小僧《こぞう》が活躍する冒険物だ。男物らしきTシャツと半ズボンを身につけ、その上からジャンパーを着た紫は、頭を軽く振り、その勢いで長い髪を整えてから、真九郎の方へと目を向ける。さっきまでの可憐さはどこかへと消え失《う》せ、今は生意気で傲慢そうな笑みが、その顔には浮かんでいた。
 小さな胸を反らすように顎を上げ、紫は腰に手を当てる。
「おまえ、名は?」
「えっ?」
「日本語がわからんのか。わかるなら答えろ。おまえの名は?」
「……紅真九郎」
「覚えよう。それで、わたしの部屋はどこだ? すぐに案内しろ」
「ここだけど」
「なに? じゃあ寝室は?」
「ここだけど」
「食堂は?」
「ここだけど」
「リビングは?」
「ここだけど」
「風呂は?」
「ない。でも、近くに銭湯《せんとう》があるから……」
 一通りの質問を終えた紫は、その内心の苛立《いらだ》ちを表すようにつま先で床を踏み鳴らし、室内をぐるりと見回した。それから真九郎の顔を見て、もう一度室内を見回し、再び真九郎の顔に視線を留める。
「……ふん、そうかそうか。わかったぞ、そういうことか。おまえ、わたしが子供だと思ってバカにしてるな? こんな貧相《ひんそう》な部屋に人間が住めるわけなかろう!」
 とても他の住人たちには聞かせられない言葉だった。
 現実から逃避するように視線を巡《めぐ》らせた真九郎は、紫の脱ぎ捨てたドレスの近くに、目薬の容器が落ちていることに気づく。
 ……まさか、さっきの涙やドレスは……演出?
 俺に引き受けさせるための?
 じゃあ……。
「おい! なんとか言わんか、一般庶民!」
 紫の声を聞きながら、真九郎は思った。
 女難の相、大当たり。
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