逢えば恋する乙女ら

逢えば恋する乙女ら
6MEN dice BBS


-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】


《》:ルビ
(例)乙女《ヤツ》ら


|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お茶の水|界隈《かいわい》


[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いかにも[#「いかにも」に傍点]
-------------------------------------------------------


 逢えば恋する乙女《ヤツ》ら


6MEN dice BBS リレー小説、第2弾!!
川上稔×古橋秀之×橋本紡×高畑京一郎×中里融司×土門弘幸
の面々が贈る新感覚ストーリー、登場!!


[#地から2字上げ]イラスト◎織田裕行


[#改ページ]


  ◇ 川上稔


 彼女は他人に依存《いぞん》する。
 彼女、中村明美《なかむらあけみ》は、自分の目でものが見えない少女だ。
 失明とはちょっと違う。
 視覚がないわけでは、ない。
 自分の目が見えない、のではないのだ。
 自分の目で見えない、のである。
 それはつまり、
「他人の目で見えると言うことですの」
 と、彼女は一人、雑踏《ざっとう》の中で呟《つぶや》く。
 神田。
 お茶の水|界隈《かいわい》の夕刻、午後五時の通りには人が溢《あふ》れている。
 朱色が藍《あい》に変わり行く空の下を、黒々と動く人の群の中、薄紫《うすむらさき》の制服姿で、彼女は揺《ゆ》れて流れて歩いている。
 色白の細面《ほそおもて》の顔に焦点《しょうてん》の結ばれない目。不安定な視線につられて、一つ編みにされた長い髪もその裾《すそ》を彼女の膝《ひざ》の裏あたりで揺らせている。
 歩む姿は漂うように、舞うように。
 行く先は神保町にある学校。忘れ物を取りに戻る。これから帰る人々とは逆の流れだ。
 向かう先から来るのは雑踏の奔流《ほんりゅう》と、家に向かう人々の前を見た視線。
 彼女は自分の目で見えない。
 彼女は他人の目で見える。
 半径三mの範囲にいる他人の視覚と思考を、覗《のぞ》き見ることが出来る。
 感覚他人依存症、と医者は言った。
 シフト、と望めばそれでオーケイ。
 そうなった原因は簡単だ。
 二年前、格闘家のストリートファイトに巻き込まれ、後頭部にゼロ距離から気孔弾《きこうだん》をぶち込まれたからだ。
 事故だ。
 が、事故だからと言って、それが遺《のこ》す後遺症は免《まぬか》れない。
 格闘家でさえ体力が五分の一くらい削《けず》られる打撃に、彼女の視覚が少しラリっても何らおかしいところはない。
「特に、相手は最強格闘家などと名乗ってましたもの」
 そして彼女は他人に依存するようになった。
 彼女は人の間を漂う。
 その動きは、歩くと言うよりも、雑踏の隙間《すきま》をこぼれる動き。
 お茶の水の歩道を九段下方面に、まるでチューリップに入ること無い銀玉のように。
 視覚は他人の目に依存する。
 遊びだ。
 前から来る人の視覚にシフトして、眼前に立つ自分自身を見る。
 視覚をシフトした相手の思考は読める。身体の感覚もわずかながらに追従する。
 だから、相手がどう動くのか、自分はどう動けばいいのか、大体|解《わか》る。
 相手の動きに合わせるようにしてよける。
 そしてすぐ、次に正面に立つ相手へと視覚をシフト。
 少し離れたとこから自分を見る人間がいる。
 またよける。
 当たらない。
 一方的な動きではない、相手に合わせた思考と動作で緩《ゆる》やかに抜けていく。
 回ってターン。
 ずれてパス。
 下がってスルー、前ヘステップ。
 そしてシフト。
 人の流れの中で、彼女は不規則ながらも揺れながら踊り、漂い、道を下っていく。動きは連鎖《れんさ》をやめることなく、
「これで七十ヒットですの。そして七十一ヒット、七十ニヒット……」
 ……新記録が出るんでしょうか?
 のんびりした思考で思う。
 道行く人々の思いやら何やらをのぞき見た上で、彼らに自分がどう見えているのかが解る。
 人の思考というのは面白《おもしろ》い。
 一時期は不快だったけど、慣れればどうってことはない。
 この界隈を歩く人々でさえ、一人一人が違うことを考えている。
 ちょっと見てみるだけで、
『——の試験どーしようか、数学の——』
『——長の野郎が書類一枚無くしただけでどうして俺達が、っておい中村、人の話を』
『——レンゲメレンゲメレンゲメレ』
『は死にますか? 海は死にますか?——』
『——やべえなあ、ギターを激しく衝動買《しょうどうが》いしちまったよお、どおしよう——』
 色々ある。
 どれもこれもつまみ食いをして行くには面白い思考ばかり。
 でも、長く食べていてはいけない。味覚が麻痺《まひ》してしまうからだ。思考が相手のものと重なってしまい、離れがたくなってしまう。
 彼女は他人に依存する。
 シフトする。
 だけど、彼女は他人に自分を預けない。
 それに、
 ……長い間同じ思考に触《ふ》れてると、汚いものも見えますもの。
 たとえば、という感覚で、今、右隣《みぎどなり》をわずかに遅れて歩いている真面目《まじめ》そうなサラリーマンに視覚をシフトする。
 と、後ろ姿の自分が見えた。彼の視界の左側あたりに、だ。
 彼女の全身を見ている、ということは、彼女に対して意識をしていないということ。そのことを、彼女は経験から知っている。
 この雑踏の中で自分を気にする人はいない。
 そういうものだ。肩がぶつかったぐらいで振り向く人もいない。漂い、誰《だれ》とも触れないままに、しかし誰かに依存する彼女は、独りよがりにただ踊る。
 ふと、シフト先の彼の思考を軽く覗いてみた。生《き》真面目なサラリーマンでも、内面では何を考えているか解らない。彼の場合は——、
『——ぴぴぴぴっ! 充電《じゅうでん》ッ! 充電ッ!」
 本当によくわからない。
 えーと、とつぶやき、彼女はまた視覚を移す。
 サラリーマンの視界から前を見る。自分の前方を歩く背の高い男性を。
 雑踏を抜けるには高い位置の視点が最も有利だ。黒い革ジャンの後ろ姿は身長二メートル近くあった。
 彼の視界に移る直前、小走りに彼との距離を詰めた。
 背後のサラリーマンの視界から自分が消える直前、革ジャンの彼にシフト。
 と、風景がわずかに暗くなった。
 彼は色|眼鏡《めがね》をかけているらしい。
 この冬場に、とちょっと驚きながらも、軽く手を前に泳がせた。彼の背には触れない。彼の視覚で見ているので彼との距離はつかめないが、でも、つかず離れずと言った距離のよう。
 視覚の他人依存で最も困るのは、手元が常に不確かになることだ。学校では、黒板は誰かの視覚を通じて見えるけれども、それを見てノートをとることはできない。
 自分の視覚がない以上、自分の手元は見えない。
 ゆえに誰か、ノートをまとめるのが上手《うま》い子の視覚を借りて、彼女のノートを写すことになる。
 この能力があるとテストは楽だ。成績が良い子の視覚を借りれば、どうとでもなる。
 ……でも、しませんでしたけど。
 二年前、それが解りつつもできなくて、白紙の答案を前に泣いてしまったことがある。
 あの時、誰の視覚も借りないとき、初めて闇《やみ》が見えた。
 他人に依存しなければ何も見えない。
 学校側は彼女の依存症を�失明�ということとして、テープレコーダー相手の口頭試問のテストに切り替《か》えてくれた。
 良い学校だ。
 その学校とも、来年の四月でお別れ。
 卒業せねばならない。
 そういう時期だ。
 周りの皆《みな》が進路を決めていく中、こればかりは他人に依存できない彼女は自分の進路を失い、テストの時と同じような気分を味わう。
 と。前を行く彼の視界に見知った人影が見えた。
 自分が着ているのと同じ制服を着た、二人組。
 ロングヘアが目立つ活発そうな少女と、ショートカットのおとなしそうな少女。
 同じクラスの結城千香《ゆうきちか》と佐藤瑞穂《さとうみずほ》だ。
 ふと、探《さぐ》るように千香の視覚にシフトした。
 視覚が通りに面した牛丼屋を見ている。
『ぐあー、ええっと今は大盛りが五百円期間中だから玉子と味噌汁《みそしる》つけて六百五十円で——』
 いきなりこれだ。
 ……凄《すご》い思考ですの。
 と思いながら、彼女は結城が自分を見ていないことに気づく。
 彼女の視覚は、
「安い! 上手い! 強い!」
 の看板に完全無欠の全力集中をしていた。
 仕方なさそうに吐息《といき》、彼の視覚にシフトし直して歩みを急ぐ。高い視点で二人の前を通り過ぎた瞬間。
「明美!!」
 声と共に、いきなり右手の方から身体に誰かがぶつかってきた。
 誰かは解る。結城だ。
 ただ視覚は前にまっすぐ歩いていたため、かなりびっくりした。
「——ひ」
 と声をあげ、慌《あわ》てて視覚と思考を右手の方にシフト。
 驚いた自分の顔が見えた。
 焦点の結ばれてない目であろうとも、表情は驚くものだ。
 自分の両肩を誰かがつかんでいる。
 結城だ。
「どうしたのよ明美、ぼーっとして」
 と言ってくる彼女の思考が読める。
『——っていかんなあ、でもでもでも今のあたしの財布には五百二十円しかなくて、大盛り玉味噌セットが六百五十円だからこれだと百二十円足りなくて——』
 ……足りないのは百三十円ですの。暗算間違ってますわ。
 と言いかけ、やめた。無理に笑って見せる。
 作り物の笑顔だと、視覚が真っ正面から教えてくれるが、
「そちらこそどうしたんですの?」
「え? 私はー、そのー」
『どうしようかなー、百二十円。この子にお金借りようかなー、でも乙女《おとめ》が牛丼って——』
 困る結城に、彼女は助け船を出してみる。
「何か、お困りですの?」
『ああもうマジ困ってるんだけど、金! 金!! 金!!! うーむ、この子の前では格好悪いとこ見せたくないのよねー。この子線が細いから、心配させたくないしー、できればあたし、優良少女の見本でいたいしー、あー、でもー、大盛り大盛り大盛りィイイっ!!——』
 ここまで一秒とかかっていない。
 かなりの葛藤《かっとう》があるようだ。
 ……す、凄いプレッシャーですの。
 結城の意識に負けそうになりながら、彼女は問うた。
「お金関係ですの?」
『うわー、鋭《するど》いアンタっ! お見事! 象印賞みたいなカンジー!!』
 結城が一息ついた。肩が落ちたのか、視覚がわずかに下がる。
「あのさあ、明美……」
『行けっ! タカれ! 牛丼! 牛丼!! 牛丼!!! 牛のドンブリっ!!!!』
「あたし、前から思ってたんだけどー」
『ああああああっ! 百二十円の為にどうしてそこまで芳《かぐわ》しきは牛の肉と玉葱《たまねぎ》の心休まるハーモニイッ!! ひろせ先生もたまにはこういう脂っこいのやりなさいよっ!!』
「あのね……」
『牛牛牛牛牛米米米米米玉葱玉葱玉葱! あああああ何でこんなに惹《ひ》かれているの何あげちゃっても良いとか思うのはどうしてどうして!?』
「それは——」
『それは愛|故《ゆえ》に、愛故に、愛故にっ!! ラーブ・イーズ・フォーエバー!!』
 結城がいきなり叫んだ。
「愛よ! 愛が大事なの!!」
 そして彼女は聞いた。
「愛は——」
「は?」
『他人に金借りて得るもんじゃないわっ!!』
「愛は自分の金で手に入れなきゃ駄目《だめ》なの——っ!!」
 不穏当な叫びとともに、いきなり視覚が動いた。
 左向け左。
 そして結城は走り出す、雑踏の中、前を歩く人々を蹴《け》り飛ばして高速前進。
 ふと、走る視界がぼやけ、前行く人々を殴《なぐ》り倒《たお》していく映像が震えた。
 結城は泣いているのだ。
 走り去っていく結城の思考が、彼女の右脳に聞こえる。
『——さようなら。さようなら、大盛り五百円! 貴方《あなた》は永遠の牛丼——!!』
 わーんと走っていく彼女の視覚が、自分の支配範囲を出た。
 視覚を闇に落とさないよう、彼女は傍《かたわ》らに立っていた瑞穂にシフト。
 瑞穂の視界は、やはり遠ざかっていく結城を見ていた。
『面白い人……』
「ごめんねー、ちょっとドリーム入ってるところがあるから、あの人」
 いえ大丈夫《だいじょうぶ》です、と彼女は答える。
 瑞穂の視界が動いて自分を見る。焦点の定まらない自分の目を。
 瑞穂は軽く会釈《えしゃく》。
「じゃ、ちょっと追うから、……またね」
「ええ、また明日」
 何気ない挨拶《あいさつ》を交わし、視界が左を向いた。
 人の波が見える。
 遠く、人混《ひとご》みが吹っ飛んだりしているのは結城が駆《か》け抜けて行ってるからだ。
『大味な人だなー』
 瑞穂の思考に深く頷《うなず》き、彼女は次のシフト先を選ぶ。
 瑞穂の視界の隅《すみ》に、九段下を降りていく少年の姿があった。
 シフト。


 するといきなり闇が目の前に広がった。
「……え!?」
 思わず声を上げ、たたらを踏《ふ》む。
 自分の身体がどこにあるのか、いきなり視界が闇に埋《う》まったため、解らなくなる。
 左手の方から衝撃。
 あ、と言う間もなく膝をつくように転んだ。
 視界は闇。地面があるという感覚さえも、膝にあたるアスファルトの硬《かた》さだけ。
 ……どうしてですの?
 シフトに失敗した。
 初めてのことだ。
 転んだことよりもその驚きの方が強く、彼女は身をこわばらせる。
 彼女は他人に依存する。
 が、それを拒《こば》まれたのだ。
 ……どうしてですの?
 思った瞬間だ。
 いきなり、両肩を掴《つか》まれ、身体を引き起こされた。
「!?」
 誰かが転んだ自分を立たせてくれている。それは解る。
 誰なのか知りたくて、シフトする。
 できない。
 息をのみながら、肩を掴む手に集中して、シフト。
 やはり拒絶《きょぜつ》。
 視界は真っ黒なまま。音と、触感《しょっかん》だけが全《すべ》ての状態。暗くて、物音だけが響《ひび》き、肌に触れる全てが敏感に感じられる、そういう状態だ。
 おかしい。
 近くにいるのに、触れているのに、シフトできない人がいる。
 今、自分を立たせてくれているのは、先ほどの少年だろう。
 彼は無言。
 彼女は立った。
「あ、あの……」
 言葉が口から出たときだった。
 両肩を押さえていた手が離れた。
「!?」
 風の音を聞いた。
 彼が背を向け、歩き出したのだ。
「あ、あの……!」
 風は遠ざかっていった。
 焦《あせ》る。
 ……依存できない人……。
 という、そのことに。
 ゆえに高速でシフトした、自分の周囲の人々に。
 一番|側《そば》にいたのは、転んだ自分に振り向いていた瑞穂。
 彼女の視覚をスタートポジションとして、自分を360度から見るように、高速で円|軌道《きどう》をもってシフト。
 ぐるりと、わずかな視線高の段差を持ちながら、彼女は自分の全身と背景を360度回り込んで見る。
 回る背景の中、彼らしき人は見えない。
 だが、何故か雑踏の中に立つ自分の姿は、今、揺れていない。
 視界が瑞穂に戻った。
 瑞穂の手が前に出て、彼女に声をかけようとする。
 その手に、一つの黒いものが握《にぎ》られているのを見た。
「これ、さっきの人が貴女《あなた》とぶつかったときに落としたんだけど……」
 彼女の視線がわずかにそれに集中した。黒い、小さな長方形の革ケース。何が入っているのかは解らない。
『財布? 形から言うとナイフとかかな?』
 瑞穂の思考に、彼女は答えない。ただ手を伸ばし、それを受け取った。
「私が、届けてきます」
 彼女は他人に依存する。
 が、それをさせてもらえない人がいる。
 そして彼は落とし物をしていった。まるで、彼女に自分の一部を預けるように。
 ……学校が閉まる前に、届けられるかしら?
 瑞穂から革ケースを受け取り、彼女は身体を背後に向けた。
 瑞穂の視界の中に見える自分の後ろ姿は、意外にも線が強く、編んだ髪も強く揺れた。
 走り出す。
 まずは彼に追いつこうと考えながら。
 シフト。


[#改ページ]


  ◇ 古橋秀之


「目的地」への道すがら、スポーツ用品店に寄ってキャンプ用のナイフを買った。ぼくがそれを選んだのは、多分、地味な黒い革のケースがセットでついていたからだ。まさかむき身のナイフを持って歩くわけにもいかないから。
「最近は変な事件が多いから、こういうの、ちゃんとしなきゃいけなくなってね」
 そう言って申し訳なさそうに身元証明用の書類を出してきた店のおじさんに、いやあ、しょうがないですよね、などと笑顔で答えながら学生証を出すぼくを、ぼくはその頭上一メートルの位置から、ぼんやりと見下ろしていた。
 ——相馬正一《そうましょういち》
 と、ぼくの手がボールペンを走らせた。ぼくの名前だ。自分じゃない自分が、慣れた様子ですらすらとその字を書くのは、なんだか不思議な感じだ。
 ——一七歳 都立K高校二年生
 書類と学生証を見比べるおじさんに、
「たしかに最近の流行《はやり》だと、『一七歳』ってだけで、わけもなく人とか刺しちゃいそうですよね」と、ぼくが言った。
 おまえの冗談《じょうだん》はつまらん。
 ——と、友達によく言われる。はたから聞いていると、なるほど、これはたしかにつまらない。
 勘弁《かんべん》してくださいよ、と笑いながらおじさんが返してくる学生証を受け取り、ぼくはナイフの入った紙袋を持って店を出た。紙袋はすぐにごみ箱に捨て、革のケースを持って歩き始めた。
(冗談としてはつまらないけど、本当なんだからしょうがない)
 たしかにぼくは一七歳で、わけもなく人を刺そうとしている。
 まったく、これは冗談じゃない。


 二時間ほど前——
 三歩離れた位置からこちらをあごで指し、
「まだガキじゃねえか」と言ったのは、ごついやくざ風のおじさんだった。派手な色合いのシャツがいかにも[#「いかにも」に傍点]で、部屋の中の、大きなデスクや壁に祭られた神棚や水牛のツノやなんかとワンセット、という感じだ。
 それに答えて、
「充分です」と、こちらは地味なスーツの、勤め人風のお兄さんが言った。
「なんでこいつなんだ?」と、再びごついおじさん。
「子供の方が、向こうも油断するでしょう。それに、なにか運動でもやってるのかな。そこそこ体力もありそうだし、なによりすばしっこそうだ。……え、あえて彼個人である理由ですか? いや、それはまったくありません。別に誰でもよかった——あ」
 お兄さんが、ぼくの方をふり返った。
「静注でお願いしますよ」
「わかってるわよお」
 そう言ってぼくの目の前で笑うちょっと派手なお姉さんの唇《くちびる》が、やけに赤かった。細い、鋭い注射器の針の先から、ちゅっと透明《とうめい》な液体が飛ぶのを見ながらぼくが感じたのは、怖《こわ》いとか不安だとかではなく、
(なんだかちょっと、いやらしい感じだな)
 という、ピントのずれた感想だった。すでにへんな注射を一本打たれて、頭がぼーっとしていたので、そのせいかもしれない。
 それでも、肘《ひじ》の裏側に針が差し込まれ、打ち身みたいなじわっとした痛みが腕の中に広がったときには、ぼくはさるぐつわの奥《おく》でうなり声を上げてあばれた。椅子《いす》の脚《あし》ががたがたと床を打ち、手首を縛《しば》る縄《なわ》がぎしぎしと絞《し》まった。元元注射は嫌《きら》いだし、わけのわからない注射じゃ、なおさらだ。
 ごついおじさんが腰を落とし、右手をふところに入れるのが見えた。お姉さんは肩越しに上げた手でその動きを制し、
「ほうら、もう効いてきた」赤い唇がきゅっと笑った。
 柔《やわ》らかい重みが膝の上に乗って、きつい香水の匂《にお》いがして、
「なにも考えなくていいのよ。あたしたちの言う通りにすればいいの」
 耳元でささやくその声が、すうっと遠のいていった。


 一一世紀ごろ、シリアのアラモン山に「山の老人」と呼ばれる人物に率いられる暗殺団があり、近隣の王侯に恐《おそ》れられていたという。大麻《ハシシ》を呑《の》んで死地に赴《おもむ》く彼らは「|ハシシを吸う人《アサッシン》」と呼ばれた——
「アサッシン——英語で『暗殺者』という意味です」と、お兄さんが言った。
「けっ、インテリぶりゃあがって」と、おじさんが言った。「鉄砲玉がシャブ射《う》って出るなんざ、別に珍《めずら》しいことじゃねえだろう」
「ロマンのない人だなあ」と、お兄さん。
「けっ」
「それに、このクスリは大麻とも覚醒剤《かくせいざい》とも違います。……強《し》いて言えばPCPに近いかな」
「なんだそりゃ」
「つまり、強力な幻覚剤《げんかくざい》だということです。現実からの遊離感や時間・空間認識の歪《ゆが》み、苦痛に対する感覚の麻痺などの効果があります。ぼくらは仮に『|天使の糞《エンジェル・シット》』と呼んでいますが——まだ国内では存在すら知られていません。鑑識にもまずかかりませんよ」
「シャブとはどう違うんだ」
「覚醒剤は服用者の知覚や行動意欲を強化しますが、『シット』は服用者の意志を肉体から完全に切り離します。今から約六時間、彼は自らの意志で行動することはできない。ぼくらが与える暗示がそれにすり替わるんです。おまけに、その間は苦痛を感じることもなく、肉体の力を一二〇パーセント引き出せる。まるで、不死身のロボットですよ。『ターミネーター』、ご覧になりました?」
「『ロッキー』なら一〇回見たけどよ」
(おじさん、なんだか微妙《びみょう》に間違えてる)
 ——が、それを指摘《してき》しようにも、今のぼくには声が出せない。自分の頭の中から追い出されたみたいな感じで、頭のてっぺんから一メートルぐらいの高さに、宙ぶらりんだ。声を出そうとしても、手足を動かそうとしても、その意志が体まで届かない。
「こいつがねえ……なんだか頼《たよ》りねェな」と、ぼくを——ぼくの体を見下ろしながら、おじさんは言った。「チャカの一丁も握らせてやるか?」
「それじゃあ意味がない。拳銃《けんじゅう》から足がついてしまう」と、お兄さんは言った。「今回の件は、あなたがたが抱《かか》えている舎弟《しゃてい》分に殴り込みをかけさせるのとはわけが違う。動機も背後関係も完全に不明、そこがミソです。あちらはほうぼうに恨《うら》みを買ってるんでしょう?」
「片手じゃ足りねえな」
「それは結構」と、お兄さん。「彼を使った暗殺が成功した時、あるいは万が一失敗した場合でも、先方はそれが誰の手引きによるものかは特定できない。ぼくらはさらに次の一手を『先手』から始められるというわけです」
「ゲームみたいに言うじゃねえか」
「いけませんか」
 おじさんはむすっとしながら、
「俺は仕事は真面目にやる主義だ」
「あら、あたしは楽しむ主義よお」くすくすくす、と、お姉さんが笑った。
 くすくすくす、と耳元をくすぐるその声を眼下に聞きながら、
(なんだか、えらいことになってるみたいだな)
 と、ぼくは考えた。
 それでもあまり実感がわかないのは、その、エンジェルなんとか、のせいかもしれない。


 ナイフを買ってから地下鉄に乗り、九段下で地上に出た。
 夕暮れの空気の中、いっぱいの背広と制服が、それぞれの学校や勤め先から、それぞれの家を目指して、地下鉄の入口に呑まれていく。その流れを逆にすり抜けながら、ぼくは泳ぐように坂道を降りていく。みんな、それぞれの家に帰っていく。でも、ぼくだけは、もう家には帰れないのかもしれない。
 これもクスリの効果なのか、時間の流れかたがいつもと違う。まわりの人がみんな、ゆっくり、ゆっくり歩いている。自分もまた、ゆっくり、ゆっくり歩いている。
 なんだか急におかしくなって、ぼくはぼくの体を見下ろしながら、くすくすと笑った。しかし、その笑いの波はぼくの顔面までは届かず、ぼくの体は相変わらずすました顔で、ゆっくり、ゆっくり。それがまた、やけにおかしい。くすくすくす。
 いやいや、笑っている場合じゃない。
「目的地」まで、あといくらもない。このままでは本当に、ぼくは人を殺してしまう。ゆっくり、ゆっくりとではあるけど、最悪のゴールは確実に近づいている。
 おじさんたちの命令は、単純なものだった。


 ・「目的地」に着いたら、そこにいるはずの、ある人物を殺せ。手段は自由。
 ・成功したら、自ら命を絶つこと。
 ・失敗したら、自ら命を絶つこと。
 ・障害があれば、これを排除《はいじょ》すること。


 学校の校則より、だいぶ簡単だ。なんていうか、こちらのジシュセイを重んじてる感じ。
 それにしても、「手段は自由」と言われて「ナイフで刺す」ことしか思いつかないというのは、ぼくはちょっと想像力に欠けているのかもしれない。でも、爆弾とか毒ガスなんかだと巻き添《ぞ》えがたくさん出そうだし、そういうのの作り方を知らなくて良かったな。あと、あのやくざっぽいおじさんが言ってたみたいに、拳銃なんかがあれば便利なんだろうけど、売ってるところを知らない。知らなくて良かったけど。
 そんな取り留めのないことを考えているうちにも、ゴールはゆっくり、ゆっくりと近づいている。
(なんとかしなくちゃ)
 まるでドラマの殺人犯を止めようとしているような、いや、テレビゲームのキャラクターが上手く動かせなくてあせっているような、もどかしい気持ち。ぼくは空中に宙ぶらりんのまま、いくら手を伸ばしても、その手が自分に届かない。
 と——
 なにかがぼくの意識をかすめて飛んだ。
 シャンプーの匂いに似た柔らかな気配が、ふわりと目の前を横切った。
 女の子だ。
 彼女はぼくには気づかずに通り過ぎ、道ゆく背広のおじさんや革ジャンのお兄さんの意識の上を、ぴょん、ぴょん、と、飛び石の上を歩くみたいに渡っていく。慣れた感じだ。
 多分、「乗られてる」人は気づいていない。今みたいに体から離れて見ていなければ、ぼくだって気づかなかっただろう。
 ぴょん、ぴょん、ぴょん、と人から人へ飛び移りながら、彼女の視点は一点に向けられている。その先には、薄紫の制服を着た、ひとりの女の子。目の不自由な人みたいに、中空にぼやけた視線をさまよわせながら、しかし、不思議としっかりした動きで人込《ひとご》みをぬって歩いている。
 ……ああ、あれがあの子の「本体」なんだ。ちょっと可愛《かわい》い子だな。それにしても——
(変わったことをしてるなあ……)
 ぼくは体はそのままに、意識だけで彼女の姿を追った。まるで、クラスの子が授業中にこっそりパラパラマンガを作ってるのを見つけたときのような感じ。こちらもこっそりと、教科書の陰《かげ》から、いつまでも見ていたくなる。
(おっと、そんなことを言ってる場合じゃない)
 そう思いつつも、ぼくは女の子のほうをちらり、ちらり。どうにも緊迫《きんぱく》感がわかないのは、やっぱり例のクスリのせいなのだろうか。
 やがて「ぴょんぴょん」の子の体は、牛丼屋の横で立ち止まって、同じ制服を着た女の子達と話し始めた。髪の長い、背の高い子と、こちらはちょっと地味な、眼鏡の子。ふたりとも友達らしい。
 遠くから見ていると、背の高い子のジェスチャーがやたらに目立つ。まるで、ラジオ体操とシャドウボクシングとミュージカルをいっぺんにやってるみたいだ。
「ぴょんぴょん」の子の意識は、背の高い子の意識に乗っている。体と同様によく動くその意識にふり回されながらも、それをけっこう楽しんでいるようだ。
 そして——
「それは愛よ! 愛が大事なの!!」と、突然背の高い子が大きな声で叫んだ。
「愛は、愛は自分で手に入れなきゃ駄目なの——っ!!」
 なんというか、「オスカ——ル!!」という感じでそう言い放つや、彼女はぼくの脇《わき》をすごい勢いで駆け抜けていった。なぜか泣いている。
 彼女に乗ったままの「ぴょんぴょん」の子は、あわてて眼鏡の子にぴょんと飛び移った。そしてさらに、背の高い子を追う眼鏡の子の視線に合わせて狙《ねら》いを定め、今度はぼくに——いや、ぼくの体に飛び移ろうとして、
 ——失敗した。
 それがよほど意外だったのだろう。
「……え!?」
 と声を上げると、彼女はその場で固まってしまった。
 ゆっくり、ゆっくりと流れていく人の群れの中で、彼女はまるで迷子みたいに立ちつくした。
 そこにゆっくりと通りかかった中年のおじさんの肩が、背後からゆっくりと彼女に突き当たり、ゆっくり、ゆっくりと彼女は膝と両手をついて転んだ。おじさんはそのままゆっくりと急ぎ足で歩き去っていく。
 ぼくの体が、自然に動いていた。
 道路の上に這《は》った彼女に歩み寄り、両肩をつかんで引っ張り上げる。例のお兄さんが言っていたように、ほんとに力が強くなってるらしくて、彼女の体はふわりと持ち上がった。小さな両足が一瞬宙に浮き、アスファルトの上にトンと降ろされた。
 ぼくの体は今、ほとんど自動的に動いているわけだけど、完全に「目的地に向かって一直線」ってわけじゃあない。そうすることもできたんだろうけど、それじゃあ不自然で、目立ちすぎる。だから、「普段のぼくがやりそうなこと」は自動的にすることになっているらしい。犬のうんこが落ちてたらよけるとか、五〇〇円玉が落ちてたら拾うとか、あと、女の子が転んだら助けるとか。
 なんだかいい奴《やつ》ぶってるみたいでちょっとはずかしいけど、自分のいい奴ぶりがちょっと誇《ほこ》らしい。
(これが、ぼくが最後にした「いいこと」になるんだろうか)
 などと考えていると、彼女の体からちょっとずれたところにいた彼女の意識が、ぼくの両手をたどって、再びぼくにつかまろうとした。が——
 ——また失敗。
 なぜなら、今、ぼくの体には、彼女がつかまるべき意識がないからだ。その意識——すなわちぼく自身は、ぼくの体から追い出された形で、その頭上一メートルにぷかりと浮いている。
 彼女の肩が強《こわ》ばる感触が、かすかに伝わってきた。
 ぼく——ぼくの体じゃなくてこっちのぼくは、思わず手を伸ばして彼女の意識に触れようとした。でも、手が届かない。届きそうで、届かない。せめて彼女がこっちに気づいてくれたら……。
 しかし、その思いもむなしく、
「あ、あの……」
 と言いかけた彼女の見えない目に向かってうなずき、ついでに眼鏡の友達にも頭を下げると、ぼくの体は彼女らに背を向けて、再び坂道を降り始めた。
「目的地」に向かって、自動的に。


[#改ページ]


  ◇ 橋本紡


 副島剛《そえじまつよし》は怯《おび》えていた。
 泣きだしそうなほど怯えていた。
 副島の仕事は手っ取り早くいえばヤクザだ。もう少し洗練されているし、複雑にもなっているけれど、本質はまさしくそのもの。十五の時にこの世界へ入り、それからいろんなことをしてきた。脅《おど》し、強請《ゆすり》、その他にもいろいろ。人を殺したこともある。身体がクマのように大きく、容赦《ようしゃ》しないことで知られていた。それで怖《おそ》れられていた。新宿ではちょっとした顔だった。
 けれど今、彼は怯えていた。
(助けてくれ!)
 叫ぶが、声は出ない。
 彼の眼前では、まさしく彼自身がひとりの男を殺そうとしていた。視界の中の彼はその巨大な拳《こぶし》を振り上げ、痩《や》せたビジネスマン風の男をもう五分以上も殴りつづけている。男の顔は潰《つぶ》れ、ひしゃげ、血でどす黒い。意識がないのは明らかで、生きているかどうかもあやしかった。しかし、それでも副島の身体は殴りつづける。
 副島はふたたび叫んだ。
(助けてくれ!)
 やはり声は出ない。
 身体もコントロールできない。
 今、副島の意識は身体を離れている。幽体離脱という言葉があるが、まさしく状況《じょうきょう》はその通り。彼の意識は地上五メートルの辺りを漂っているのだった。その真下で、彼の身体が男を殴っている。なんとも信じられない現実。なぜこんなことになったのか、さっぱりわからない。
 三時間前、副島は若い連中と酒を飲んでいた。店は彼の女がやっており、安心できる場所だ。そこを出たあと、通りでひとりの女とぶつかった。外人で、背がやたらと高く、引き締《し》まった体つきはまるで豹《ひょう》のよう。まず美人と言っていいだろう。髪も目も黒で、西洋人なのだが、どことなくエキゾチックな感じがした。女はたどたどしい日本語で謝《あやま》った。おそらく、不慣れな観光客なのだろう。夜の新宿に手頃《てごろ》なスリルを味わいに来たのだろう。国に帰ったら、そのことを自慢げに話すのだろう。副島は笑って許した。外人女に絡《から》むほど下《した》っ端《ぱ》ではない。それから別の店で一杯だけ水割りを飲み、電話を三本かけ、若い連中を帰し、女の家に行った。そして——気がつくと、こんなふうになっていた。
 遊離したあと、彼の身体は勝手にベッドから起き上がり、女に言い訳し、家を出た。その間、副島は身体のコントロールを取り戻そうと足掻《あが》いたが、まるでダメだった。彼の身体が向かった先は中野にある住宅地。アパートの裏手で待ち伏《ぶ》せ、帰ってきた男をいきなり襲《おそ》った。そして今も襲っている。
 やがて、副島の身体がのっそりと起き上がった。
 足もとの男は死んでいる。
 一目でわかった。
 両の眼球は潰れ、鼻はひしゃげ、頬骨《ほおぼね》が折れて陥没《かんぼつ》している。人間の顔は中央が盛り上がっているものだが、そこがそっくりへこんでいるのだ。おそらく、頭蓋骨《ずがいこつ》そのものも損傷《そんしょう》しているだろう。脳だって無事なはずがない。グシャグシャ。ミキサーにかけたようなもの。今からどんな蘇生術《そせいじゅつ》を施《ほどこ》したところで、決して生き返りはしない。拳で人の顔をあんなふうにするのは普通なら不可能だ。殴るほうの拳が音を上げる。けれど、副島の身体はそれをやった。自分の拳がどうなっているか考えると、副島は寒気がしてきた。
 副島が見ている前で、立ち上がった彼の身体は懐《ふところ》から包丁を取りだした。女の家からこっそり持ってきたものだ。左手で不器用に——右手はもう使えなくなっているのだろう——その柄《え》を持つと、自らの首に当てる。
(やめろ!)
 副島は叫んだ。
 が、身体はやめなかった。
 真横に引く。
 血が迸《ほとばし》った。まるで噴水のように。身体がガクガクと震える。顔が引きつる。ゆっくり血の海へと倒れてゆく。
 自分が死につつあるのを、副島は恐怖とともに見つめていた。
 と、その時——。
「ご苦労様、クズ野郎」
 声がした。
 振り向くと、そこに女がいた。彼と同じように、空間に浮いている。一瞬|戸惑《とまど》い、思いだす。通りでぶつかった女だ。豹みたいな体つきをした、エキゾチックな西洋人。
 思わず叫《さけ》ぶ。
「だ、誰だ!? いったい——」
「人形使いよ、あたしは。あんたみたいな悪《ワル》を使って、別の悪を殺《や》る。ま、悪とは限らないけどね。ごめん、ちょっとばかり偽善《ぎぜん》的にすぎたかな」
「それは——」
 もう声が出なかった。
 一瞬後、目を見開いたまま、副島は消えた。
 身体が死んだのだ。
「終わった、か」
 呟くように女が言った。
 時間をかけて、あたしはあたしの身体に戻る。
 薬によるフロート効果はおよそ五時間。
 まだ時間はたっぷりあるわけで、焦ることはない。
「ふう——」
 大きく息を吐《は》くと、精神が身体になじんだ。
 ベッドに横たわったまま、一キロ先の住宅地で死んでいるふたりの男のことを思う。ひとりはヤクザで、ひとりは大手商社の課長。ふたりともあたしが殺した。ふたりには死ぬ理由があった。少なくとも、どこかにあった。いや、誰かに、と言ったほうがいいか。とにかく、あたしはただ殺るだけ。それがあたしの仕事だから。
 暗闇の中を抜け、バスルームへ。
 鏡に映る自分を見つめる。
「リルビィ。リルビィ・ヘイソン」
 自分の名前を呟いてみる。
 フロート効果のあとはいつも不安になる。はたして本当に自分は自分なのか、と。その不安はしばらく消えない。
 水を飲む。
 ゆっくり眠ろうと思った。


 あたしは今、二十四歳。東京に来て五年になる。その前はベルリンにいた。生まれはワルシャワ。八十年代末から九十年代初めに起きた社会主義体制の雪崩《なだれ》的|崩壊《ほうかい》、そして混乱の中、ベルリンに両親共々移り住んだのだ。言葉もろくに通じない移民の生活は厳しく、悲惨《ひさん》とさえいえたが、それでもあたしにとってベルリンは天国だった。貧しきポーランドと違い、そこにはなんでもあった。最先端の音楽、最先端のファッション、洗練された男の子たち……どれもあたしには手の届かない物ばかりだったけど、とにかくそれらは近くにあった。もしかすると届くかもしれないと勘違いできる程度には。そしてベルリンに移り住んでから三年後、十七歳の時、あたしはミハラに出会った。日系イタリア人で、金持ちで、いつもアルマーニのスーツを見事に着こなしている伊達《だて》男。どういう了見《りょうけん》なのか——それはあとでわかることになったが——彼は貧しい移民の子供であるあたしに興味《きょうみ》を示した。あたしはすぐ、彼にのぼせあがった。彼は金持ちだったし、とびきりクールに見えたし、なにより東洋人特有のミステリアスさを漂わせていた。その特別な雰囲気《ふんいき》に、ウブなあたしは逆らえなかった。リムジンの後部座席でよく冷えたシャンペンを飲ませてもらった時は、まるで天国にいるような気さえしたものだ。彼のためならなんだってできると思ったし、彼は自分を愛してくれていると信じてた。ああ、愚《おろ》かなあたし……。
 やがて、あたしの心をしっかり捉《とら》えたと判断したころ、ミハラは態度を変えた。彼は実に手慣れた荒っぽさと繊細《せんさい》さで、あたしの中にあったいくつかの要素を叩《たた》き潰していった。ウブなあたし、素直なあたし、世間知らずのあたし——ことごとく、だ。その潰し方は、今思い返してみても、見事という他《ほか》ない。時々、彼はあたしを殴りさえした。それも顔が腫《は》れ上がるほどに。そして、そのあと、涙を流して許しを請《こ》うのだ。あたしは許した。彼があたしを愛してくれてると思ったから。暴力を振るうのも、その表れだと思ったから。結局のところ、それも彼の計算にすぎなかったのだけれど。
 彼があたしの中に見いだしたのは、ちょっとした才能だった。踊りの才能。影のように揺らめき、炎のように熱く、氷のように冷たく、幽霊のように正体不明の踊り。そして実際、あたしにはその才能があった。あたしは誰よりもうまく踊れるようになった。フロートを身につけた。
 時折——今でも、ミハラのことを思いだす。
 涙を流し、ひざまずき、許しを請う彼の姿が思い浮かぶ。あたしの耳元で優《やさ》しくささやきかける声が蘇《よみがえ》ってくる。その微妙な声の質感まで感じ取れるほど、はっきりと。悪魔による天使のささやき。
「リルビィ、わかってるだろ、オレはおまえを愛してるんだ、だから……」
 今では、彼があたしを利用していただけだとわかっているけど、それでも——あたしはその声に惑わされそうになる。その甘い声に身をゆだねてしまいたくなる。身体の芯《しん》が疼《うず》く。なんてバカな女。彼はあたしになにをした? ひとつ、彼はあたしを殴った。ひとつ、彼はあたしにウソをついた。ひとつ、彼はあたしを食い物にした。ひとつ、彼はあたしを非合法の組織に売り飛ばした。ひとつ、あたしは化け物になった。ひとつ、あたしは人を平気で殺せるようになった……。
「けど、それもおまえのためなんだ……わかってるんだろ、リルビィ……オレがおまえを愛してるってこと……」
 恥《はじ》知らずの嘘《うそ》つき。ひどい男。けれど、身体が震える。あの腕に抱かれたくなる。衝動。理屈《りくつ》じゃない。理屈では否定できない。だから、そういう時、あたしは夜の街に出かける。挑発的な革のスーツに身を包み、腰を振って、夜の街を歩く。そして、普通に暮らしている、お上品なこの国の住民を眺《なが》め、思う。あたしはここにいる誰よりも強い。その気になれば、片っ端から殺していくことだってできる。そう思うと自信が身体中にみなぎる。ミハラの甘いささやきが遠のいてゆく。あたしはあんたのものじゃない……あたしはあたしのもの……あたしだけのもの……。
 実際、その通りなのだ。
 ミハラはもう、この世にいないのだから。
 彼は死んだ。
 あの世界に生きる者には破ってはいけないルールがある。それは、決して微妙なバランスを崩《くず》さないこと。ひっそりと、慎重《しんちょう》に生きること。目立つことはすなわち死であり、無造作な動きはたちまち死神を呼び寄せる。ミハラはあの世界で長く生きるうちに、その慎重さを失ってしまったようだった。あたしという存在を得たことで、気を大きくした。それくらい、あたしは優秀だった。ベルリン一の腕っこき。ミハラには確かに、女を見る目があったのだろう。けれど、たとえどれほどあたしが優秀であろうと、死神の目はごまかせない。ミハラは死んだ。両手の指を全部折られ、歯という歯をグラインダーで削られ、鋭利《えいり》なナイフで生きたまま腹をさばかれ……そしてドブ川に投げこまれた。無様《ぶざま》な死に様。
 あたしはそれで自由になった。
 東京に逃げた。
 仕事を探した。
 いくつかの組織と渡りをつけた。
 ひとりで生きていく術《すべ》を覚えた。
 そして五年。
 あたしはわりとうまく生き抜いている。
 今のところは。


 水曜日。晴れ。気温十九度。起床後、ルーティンどおりに腕立てを五十回。腹筋を五十回。
 百二十キロのベンチプレスを二十回。それを一セットとして、計三セット。そしてたっぷりの食事を取り、外へ。目指すは池袋。高層ビルの裏手にある、安っぽい雑居ビルの五階。ドアには『黄《ファン》経済研究所』と書かれている。ノックを二回。五秒おいて五回。さらに五秒待ち、中へ。
 この手順を踏まないと、ドアは決して開かない。
 事務所の中には机がひとつ。それだけだ。ファイルを収める棚も、応接セットもなし。そして、たったひとつの机の向こうに座っているのがファンだ。
「よう、リルビィ」
 ガラガラの声でファンが言う。
 ファンは身長百五十センチ、体重四十キロ、ずるがしこいキツネみたいな顔をしている。痩せていて狡猾《こうかつ》そうなところは、ほんと、キツネそっくり。日本生まれの韓国人で、年は四十代半ば——あたしがファンについて知ってることはそれくらいだった。一度背景を探ってみようとしたことがあるけれど、途中でやめた。まずいことになりそうな気がしたからだ。たぶん、正しい判断だったのだろう。どのみち、知ったところでどうなるものでもないし。
 あたしは机の前に立ち、面倒《めんどう》くさそうに言った。
「補給に来たよ、ファン」
「わかってる」
 肯《うなず》くと、ファンはポケットから小さなビニール袋を取りだし、テーブルの上に放り投げた。ビニール袋の中には白い粉末が入っている。フロート効果の源だ。あたしはその袋を自分のポケットに滑《すべ》りこませた。
「実はな、リルビィ、よくない噂《うわさ》がある」
「噂?」
 ファンが言う『噂』は、文字どおりの意味ではない。あまり話したくないが、話さざるをえない事実があるという意味だ。最初、そのギャップがわからなくて戸惑ったものだ。
「どういう噂なの?」
「そいつをベースにしたブレンド物が出まわってるらしい」
「なんだって」
「|天使の糞《エンジェル・シット》とか呼ばれてる。新手のヤクだと思われてるみたいだ。フロート効果がおもしろいんだろうな」
「けど、どうしてこれが……」
「よせよ、リルビィ。どんなところからだって物は漏《も》れる。CIAだろうがKGBだろうがモサドだろうが流出と漏洩《ろうえい》を防げるわけがない」
 その通りだった。
 あたしは肯き、言った。
「わかった。気をつけておくよ」
「頼《たの》む。悪いけど」
「で、あんたのほうの用ってのは?」
「なに、仕事ってヤツさ」
 ファンは一枚の写真をテーブルの上に投げだした。
 女の子。
 若い。
 高校生。
 薄紫の制服。
 パッと見て取れるのはそれくらい。
「名前は中村明美。なかなか可愛い子だろ」
「この子がどうしたの」
「殺ってくれ」
「はあ?」
「二度も言わすなよ。殺すんだよ」
「なんでまた」
「どうしたんだ、リルビィ。理由を聞くなんて、おまえらしくないな」
 その通りだった。
 あたしはいつも、理由を聞かない。
 必要ないからだ。
 それでも思わず聞いてしまったのは、その子があまりにも普通だったからだ。どこにでもいる、ただの高校生。めずらしくもなんともない。こんな普通の子に、殺されなければならない理由があるなんて。あたしは大きく息を吐いた。
「確かにあたしらしくないね」
「まあ、でも、いいや。説明してやるよ。そのほうが絵がはっきりするし。おまえさんもやりやすくなるはずだし」
「絵? どういうことよ、ファン」
「なに、至極《しごく》簡単。この子はフローターだ」
 あっさりと告げるファン。
 それを聞いて、あたしは舌打ちした。
「糞《シット》! フローターだって? この子が?」
「間違いないね。この三ヵ月、専属のチームがずっとその子に張りついてる。例の連中さ。おまえさんもご存知のように、フローターはいろいろやっかいだからな。仮性なら、まあ、放っておけばそのうち元に戻っちまうが、この子は真性らしい。となれば、連中が見逃すはずはない。それで、おまえさんに話が来たってわけ。フローターにはフローター。道理だな、まったく。連中は確かにやり方を心得てるよ」
「真性……先天的なものなの?」
「いや、そうじゃないらしい。なんでも、トラブルに巻きこまれたショックだとよ。ま、もともと因子を持ってたんだろうな。トラブルはただのきっかけだろう」
 写真を手に取る。最初の印象は変わらない。ただの、日本の女子高生。まだ子供だ。あどけないが、どことなく繊細で、どう表現すればいいか……健気《けなげ》……いや、違う……痛々しい……そう、痛々しい顔つきをしている。その顔つきが生まれついてのものなのか、あるいはフロート現象によって身についたものなのか、あたしにはよくわからなかった。
「あたしに依頼《いらい》が来た。ってことは、第二段階に移行しつつあるってことね?」
「連中はそう考えてる」
「時間はない、と」
「よくおわかりで」
 ファンは少しおどけた調子で、
「だから報酬《ほうしゅう》も高い」
 フロート発現の第一段階は、まず視覚の喪失《そうしつ》から始まる。ただし、正確には喪失ではない。確かに自身の目による視覚は喪失するものの、その代わりに他人の視覚に�依存�することができるようになる。つまり、人の目を借りて物を見られるのだ。この段階では、フローターはすぐに処分されない。連中の監視の対象になるだけだ。真性か仮性かが判断される。仮性なら、特に問題なし。フロート現象はやがておさまり、連中も消える。けれど真性なら、話は違ってくる。処分。簡単に言うと、そうなる。この子が処分対象になったということは、すなわち真性であり、同時に第二段階への移行が始まりつつあるということだ。完全な移行には通常、二週間から三週間かかる。そしてこれが事実上、最後のチャンスだ。第二段階へ移行したフローターはもう、手に負えない。殺すとしたら、移行前だ。ただし、例外がないわけではないが——このあたしのように。
「どうする、リルビィ、引き受けるか?」
 あたしは答えない。
 急に部屋の中が寒々しく感じられる。自分が七歳の子供に戻ったような気分になる。その感覚に足が震えそうになる。
 ファンがまた尋《たず》ねた。
「リルビィ、引き受けるのか?」
「他に選択肢《せんたくし》があるっていうの、ファン?」
 ずいぶん時間がたってから、あたしは平板な声で答えた[#「答えた」に傍点]。
 ファンはただ、肩をすくめただけだった。


 そして、あたしは彼女を殺した。
 七十二時間後に。


[#改ページ]


  ◇ 高畑京一郎


 この世には、どんな事でも起こり得る。
 そんな事は充分わきまえていた筈《はず》だったが、さすがにそのニュースには、些《いささ》か驚かされた。
 男は、しばしテレビの画面を食い入るように見詰めたあと、唇の端に、うっすらとした笑みを浮かべた。
 ……だからこの世は面白い。
 ホテルの最上階。ツインルーム。
 そのベッドの中に、男はいた。身にまとっているのは白いバスローブ。男は、ベッドの中で上体を起こし、壁に背中をもたせ掛けるようにして、テレビの画面に顔を向けていた。
 時刻は六時一〇分。厚いカーテンの隙間から、朝の光が差し込んできている。
「ん……うぅん……」
 ベッドの中で、もぞりと、女が蠢《うごめ》いた。
 年の頃は二〇代後半というところだろうか。かなり肉感的な女だった。亜弓《あゆみ》という名前は聞いてはいたが、おそらくは偽名《ぎめい》だろう。仕事上の関係で、ついこの間顔を合わせたばかりだが、ふと気付けば、いつの間にやら、こういう関係になってしまっていたというわけである。年齢も経歴もはっきりとはしないままだったが、男と女が関係を持つのに、そんなものは必ずしも必要とはならない。一緒《いっしょ》にいる事で充足し合える相手であれば、それで充分なのだ。
 亜弓は、落ち着きの良い体勢を探すように、ベッドの中でもぞもぞと体を動かしていたが、やがてその動きを止め、代わりに、ゆっくりと、その目を開いた。
「おはようございます。亜弓さん」
 男は、目覚めたばかりの女に、にっこりと微笑《ほほえ》み掛けてやった。
「……おはよ」
 亜弓と呼ばれた女は、眠気の残る声でそう応《こた》えると、俯《うつぶ》せになったまま、伸びをした。ちょうど猫がするような背伸びの仕方である。朝の光の中で、自い背中がやわらかくしなった。
「よく眠れましたか?」
「ん……おかげさまでね」
 亜弓は含み笑いとともに答えると、俯せの体勢のまま、首だけねじ曲げるようにして、男を見上げた。
 精気に満ちた、きらきらと輝くような瞳《ひとみ》である。迂闊《うかつ》に手を出せばすぐさま引っ掻いてくる癖《くせ》に、気が向けばごろごろと喉《のど》を鳴らして甘えて来る。気まぐれでしなやかで、油断ができない。まさしく猫の瞳だった。
 ……つくづく、この手の女とは縁がある。
 男は内心で苦笑した。
 要するにそれは、自分がこのタイプの女が好きだという事なのだろう。柔順なだけの女では物足りない。猛獣をあやす時のような、ある種の緊張感が欲しいのだ。
「あんたってさぁ……変な男だよね」
 男を見詰めていた亜弓が、ぽつりと呟くように言った。
「そうですか?」
「そうよお」
「例えば、どういったところが?」
「真面目だけが取り柄ってな顔してる癖に、ヤクザなんかと付き合ってるとことか……あたしにあんな事[#「あんな事」に傍点]しときながら、『そうですか?』なんて澄《す》ましてるとことか」
「『変な男』は、お嫌いですか?」
「さぁ、どうだろ。……なんて答えて欲しいのさ」
 男の問いに、亜弓は素直には答えない。からかうような表情で、逆に問い返してきた。
「それはやっぱり……『好きで好きでたまらない。ああもう、あたしをどうにでもして』って感じの答えですかね」
「ばーか。誰が言うか、そんな事」
 亜弓は、けらけらと笑った。
「それは残念」
 男はおどけて肩をすくめてみせる。
「……あんたさぁ、自分で自分の事、結構もてると思ってるでしょ」
「おや、そんな風に見えますか?」
「見える見える。その余裕ぶった態度とか、ちょっとむかつく感じ」
「はっきりおっしゃいますね」
 男は亜弓の方へ、そっと手を伸ばした。ウェーブのかかった髪を軽く梳《す》くように撫《な》でてから、頬の方へと指先を滑らせていく。そして、真顔で、こう告げた。
「本当の事を言いますとね。昔から困ってるんですよ。出逢《であ》った乙女たちが、揃《そろ》いも揃って、僕に恋してしまうのでね。……ちょうど昨夜のあなたのように」
 目を細めるようにして男の指の動きに身を任せていた亜弓が、その途端《とたん》いきなり身を起こして、男の腕に噛《か》み付いてきた。
「おっと、危ない」
 寸前のところで、男は手を引っ込める。
「あんたって、ほんと、むかつく」
 亜弓は、そのまま男に飛び掛かってきた。男の首にしがみつき、裸の身体を押し付けてくる。そして……。
 はっと、亜弓は顔を上げた。そして即座に振り返る。その横顔は、ほんの一瞬前とは打って変わった、張り詰めたものになっていた。
 亜弓の表情を変えたもの。それはテレビから聞こえてくる音声だった。朝方の情報番組は、同じニュースを何度も繰《く》り返して放送する。先程《さきほど》、男を驚かせたあのニュースを、アナウンサーが再び読み上げていたのだった。
『……警察では、副島剛容疑者が、木島《きじま》さんを撲殺《ぼくさつ》し、その後、所持していた包丁で自らの頸動脈《けいどうみゃく》を切ったと見ています。また、副島容疑者が広域暴力団|香住《かすみ》組の組員であり、木島さん自身にも業務上横領の疑いがあった事などから、両者の間になんらかの金銭的な問題があったのではないかと見て、捜査を続けています』
 テレビの画面には、『木島さん』とやらと並んで、副島剛の写真が映っていた。
「死……んだ? 副島のおっさんが?」
 愕然《がくぜん》とした様子で、亜弓が言葉を漏らす。
「どうも、そうらしいですね」
 男が相槌《あいづち》を打つと、亜弓は咎《とが》めるような表情で、男を振り返った。
「あんた、なにそんなに落ち着き払ってんのさ! それとも……この事、知ってたの?」
「まさか。僕も、ついさっき、この番組で知ったばかりですよ。さすがに僕も驚かされましたが……もう死んでしまったんじゃ、今更《いまさら》、慌てたって仕方ないでしょう?」
「そういう問題じゃないだろ? あのやり方は……あの薬じゃないか!」
 さすがに亜弓は頭の回転が早い。即座《そくざ》に、そこに思いが至ったようだ。
「ええ、そうですね。僕もそう思いますよ」
「じゃあ、落ち着いていられる場合なんかじゃないだろ? あの薬を使って、副島のおっさんを始末したって事は、向こうが反撃に出たって事じゃないか。ぐずぐずしてたら、あたしたちだって……」
「まあまあ、そんなに興奮《こうふん》しないで」
 男は半ば強引に亜弓を抱き寄せると、子供を宥《なだ》めるように、その背中を、ぽんぽんと叩いてやった。
「僕も正直、最初はそう思いました。ですが……よく考えてみると、それではおかしいところがあるでしょう?」
「……どこがよ」
 亜弓が、下から男を見上げる。不満そうな表情ではあるが、男の腕の中から逃れようとはしない。一応、話を聞いてみる気ではいてくれている様子だった。
「目標を仕留めたあと、道具[#「道具」に傍点]に自分自身の始末もさせる……それができるのが、あの薬です。ですが、今のニュースだと、薬を使われたのは副島さんの方なんですよ」
 亜弓の目が見開かれた。
「……って、事は……」
「向こうの連中が狙ったのは、あの会社員の方だったって事ですよ。副島さんを始末するつもりだったのなら、あんな面倒な事をする必要はありません。薬を投与する機会があったのなら、殺す機会もあった筈ですからね」
「……じゃあ、なに? 副島のおっさんは、ほんとにたまたま、道具として選ばれたって……そういう事?」
「おそらくは」
 男は、はっきりと頷いてみせた。
「でも、そんな偶然が……」
「あるから、この世は面白いんですよ。……まぁ、人を呪《のろ》わば穴二つとも言いますしね。神様の罰《ばち》が当たったという考え方も、できなくはないですが」
 亜弓はなおしばらく男を見詰めていた。男の分析にどの程度の妥当《だとう》性があるか、亜弓なりに検算しているのだろう。
 やがて、亜弓の体から、ゆっくりと緊張が解けていくのが分かった。それはつまり、男の判断を正しいと、亜弓も認めた事を意味する。
「あのおっさん、殺しても死なない化け物だと思ってたけど、やっぱり人間だったんだねえ……まさか、こんな無駄《むだ》な死に方をするとは、本人も思ってなかっただろうけどさ」
 溜息《ためいき》まじりに、亜弓は言った。
「まったくです」
 亜弓のなめらかな背中を撫でながら、男は心の中で苦笑した。
 ……殺しても死なない化け物、か……。
 フロート効果には二つの段階が存在する。それがこれまでの定説だった。だが、それが間違いであった事を、今の男は知っている。
 第三段階。それが存在するのだ。
 フロート効果は、心と体を切り離す。だが、その分離は完全ではない。体が死ねば心も死ぬ。意識という電気信号を維持する場として、自らの脳が活動を続けている事が必要だからだ。
 だが、第三段階は、その制限さえをも超えてしまう。意識を維持するために生きて活動する脳が必要な事には変わりない。だが、それが自分の脳である必要がなくなるのだ。
 自らの肉体を失っても、他人の脳を宿として存在を続ける意識体。それが『第三段階フローター』だった。まさに、正真正銘《しょうしんしょうめい》の化け物である。
 その存在を知っているのは、現時点では男だけだ。向こうの連中は、そんな事は夢想だにしていない。その差異が、男にとって、大きなアドバンテージとなる筈であった。
「で……これから、どうする?」
 亜弓の言葉に、男は我に返った。
「そうですね……。とりあえず、今回の一件で、はっきりした事は、向こうは我々の存在にまったく気付いてないという事です。気付いていれば、よりにもよって副島さんを道具[#「道具」に傍点]に使うわけがありませんからね」
「それはそうだけど……それで?」
 亜弓は頷き、そして男の次の言葉を促《うなが》した。
「向こうが気付いていないのであれば、なにも慌てふためく必要もないでしょう。これまで通り、順序よく片付けていけばいいと思います」
 敵の規模は大きく、かつ、よく整備されている。かつては自分もそこに属していただけに、男はその事をよく知っていた。焦って事を急いでも、ろくな事にはならない。
 まずは、黄という韓国人を始末する事。それが男の当面の目的だった。
 黄はフロート効果を現出するための薬剤を扱っている。天使の糞などというまがい物とは違う、純正の代物《しろもの》だ。その保有量の多寡《たか》は、これからの戦いに大きな影響《えいきょう》を及《およ》ぼす。薬の流れてくるルートを断《た》ち、敵の組織への薬の供給を断つ事。そして、やがて行われるであろう、ルートの再構築に乗じて、ルートそのものを乗っ取る事。それが男の当面の目的であった。
 だが、黄を始末する事で、組織に敵対者の存在を悟《さと》らせる事になってはまずい。だからこそ、男は副島剛に接近したのである。
 黄は麻薬の売買をも行っていた。それも、副島の属する組の縄張り内で、である。つまり黄は、副島の組の商売|敵《がたき》でもあったのだ。
 男は、黄が麻薬を扱っている事を、副島に教えた。それを知った副島は、組の面子《メンツ》に掛けても、黄を始末しようとする筈だ。そして、副島という隠《かく》れ蓑《みの》がありさえすれば、たとえ組織の中で黄の死に疑いを持つ者が現れたとしても、副島のところで追及《ついきゅう》は止まる。
『黄の奴も、麻薬なんぞで小金を稼《かせ》ごうとするから、こんなつまらない死に方をするんだ』
 そう思わせる事ができるからである。
 不幸にして副島は黄より早く命を失う事にはなったが、隠れ蓑としての効果はいまだに残っている。この二、三日中に黄を始末する事ができさえすれば、男の計画にそれほど大きな影響は出ない筈だ。
「ところで……例の坊やはどうなりました?」
 男は亜弓に訊《たず》ねた。
 副島と男が、黄殺害のために放った道具[#「道具」に傍点]——相馬正一とかいう高校生の事である。相馬正一を道具[#「道具」に傍点]として仕上げるのは男の役割だったが、放たれた道具[#「道具」に傍点]が、プログラミングされた命令を実行し終えたかどうかの確認は、亜弓の役割になっていたからである。
 男の質問に、亜弓は、肩をすくめながら答えた。
「それがさ……坊やを行かせた所に、黄の奴、顔を出さないみたいなのよ」
「なんですって?」
「なんか、急ぎの用件ができたらしくてね、あちこち飛びまわってるみたい。悪運が強いって評判は本当らしいわね」
「……ふむ」
 男は少し考え込んだ。
「どうする? なんなら、一度、回収して、プログラムを入れ直す?」
「……いえ、それはやめておきましょう。下手な事をして、向こうに気付かれるような事になっては元も子もありません。命令はまだ生きているんですし、どうしても必要なら、別の道具[#「道具」に傍点]を使えばいいだけの話です」
「まぁ……それもそうだけどね」
「もう二、三日、のんびりと待つ事にしましょう。さっきも言いましたが、我々の方が優位にあるんです。焦る必要はありません」
「うん……:分かった。じゃあ、そうしましょ」
 亜弓は一つ頷くと、改めて男の顔を見上げた。
「? どうしたんです?」
「うぅん……別に」
 そう答えた亜弓は、次の瞬間、唐突《とうとつ》に男の首に両腕をまわすと、唇を重ねてきた。
 さすがに男が目を丸くすると、亜弓はにっこりと笑い、
「あんたみたいな図太い男、結構、好きよ」
 囁《ささや》くように、そう言った。
「……それは光栄です」
 男は苦笑しながら、亜弓にキスを返す。
「また、そうやって余裕ぶる」
 亜弓は膨《ふく》れっ面《つら》をして見せたが、その実、満更でもなさそうだった。
「ところで……今更、こんな事|訊《き》くのもなんなんだけどさ……」
「? なんです?」
「あんた、名前なんていうんだっけ?」
「あれ? 言ってませんでしたか?」
「言ってたら、わざわざ訊かないわよ。……ま、この世界じゃ、名前なんかあってないようなもんだけどさ。あんたにも呼んで欲しい名前の好みってもんがあるでしょ。あんた、あたしになんて呼んで欲しい?」
 亜弓の言う通り、裏の世界に生きる者にとっては、自分の呼び名などに大した意味はない。要は個体識別の役に立ちさえすればいいのだ。
「そうですね……。それでは……」
 適当な名前を見繕《みつくろ》おうとした時、男の脳裏に、一人の女の姿が浮かび上がった。
 ……リルビィ。
 そう、彼女は今、ここ日本にいる筈だ。そして、副島を殺したのは、フロート効果の使い手。それを扱うだけの技術と適性を持つ者は、組織の中にもそうはいない。
 ……結局、俺とお前は、巡《めぐ》り逢う運命なのかもしれないな。
「なに考え込んでるのさ?」
「いえ、別になんでもありませんよ」
 怪訝《けげん》な表情を浮かべている亜弓に笑って答え、そして男は、これからの名前を決めた。
「……三原《みはら》。僕の事は、そう呼んで下さい」
 その名は、五年前のあの日まで、男が使っていた名前である。
 男が殺され、そして『第三段階フローター』としての覚醒をした、あの日まで。
 ……リルビィ。俺と出逢った時、お前はどうする? 戻ってきてくれるか? それとも……。


[#改ページ]


  ◇ 中里融司


「……今日も逢えませんでしたわぁ……がっかりですの」
 机の上に突っ伏して、明美は寂《さび》しく呟いた。
 ぼんやりと、彼女は一振りの、抜き身のナイフを弄《もてあそ》ぶ。三日前、彼女を助けてくれた男性が落としていった、黒い革ケースに収められていた、新品のサバイバル・ナイフだった。
 彼女の視覚には、机に突っ伏している彼女自身が見えている。自分自身のはずなのに、なぜか他人のように思えてくる。
 ナイフを弄ぶ明美の耳を、言葉となって伝わった空気の振動が震わせた。
「お姉、玩具《おもちゃ》にしてると危ないよ。そのナイフ、ほんとによく切れそうだから」
『支障がないったって、自分の眼じゃないんだから。ちょっとした弾《はず》みで、どんな事故になるかも知れないじゃんか。もーちょっと危機感持ったらどうなのよ』
 微妙に異なる、思考と言葉。視覚がぐんと接近し、明美が弄んでいたナイフの柄を、注意深く取り上げる。
 彼女は咄嗟《とっさ》に、自分が掴まっている妹の右手にシフト。いままで自分の掌《てのひら》にあった固い感触が、妹の手に移っている。
 自分の感覚と妹の感覚がごっちゃになってしまいそうな、そんな感覚に囚《とら》われて、明美はぷるぷると首を振る。
「うん……ごめんなさいね。気をつけてはいるつもりだけど、ついおろそかになってしまって。そうですわね、気をつけます」
 ——私、これでも他の人に、けっこう気を遣《つか》っているつもりですのに。
 謝りながら、明美は落ち込んだ。
 自分の視覚を他人に使われることに、不快感を覚える人間も、世の中には数多い。それに、他人の意識に乗っている明美は、誰の眼にも見えないし、感じられることもない。
 だから、普段は勝手に、人の意識を飛び歩く。
 他人の視覚で他人を眺め、自分の姿を見て歩く。
 けれども、家の中ではそうはいかない。表情やちょっとした仕草で、誰の視覚を使っているのか、見抜かれてしまう。家族ならではの結びつきが、明美には負担になっていた。
 そこで、一つの了解事項ができている。
 明美は、家の中では家族の視覚に依存する。
 いまは妹の貴美《たかみ》が、姉の視覚を担《にな》っていた。
 陸上部に所属する、生意気盛りの一四歳。
 視線をことさらに明美から逸《そ》らし、ふてくされたように、自分のベッドにひっくり返る。
 貴美ちゃん、私を見ていてくださいません?」
 戸惑う明美に、貴美はうんざりしたような顔を向け、身体を起こして問いかけた。
「お姉さ、それでいいわけ? そりゃ、お姉は自分で人生切り開くタイプじゃないからさ。結局は誰かと結婚して、平凡な主婦になっちゃうだろうから、今から依存してたって、たいした変わりはないかもしれないけどさ。いつもそんなだと、そのうち自分がなくなっちゃうよ」
 言葉と同時に、その裏付けとなる思考が、明美にははっきり感じられる。
 ——この子、深い考えがあって言っているわけじゃありませんの。怒っちゃいけません。
 自分に言い聞かせながらも、明美はそれ以上、聞いてはいられなかった。
 一人で立ち上がり、部屋を出る。自分の後ろ姿が見えるが、あえて立ち止まらない。
「どうしたの、お姉。一人じゃ危ないよ。お姉ってば!」
 慌てた貴美の声が聞こえ、視点が急激に移動する。
 けれど明美は、意地になってシフトしない。
 勘を頼りに、階段へと足を下ろす。その途端、明美の体は足を踏み外し、派手な音を撒《ま》き散らして、見事に一階まで転がり落ちた。
「明美!?」
「お姉、大丈夫!?」
 仰天《ぎょうてん》した母と妹の声が、足音を連れて聞こえてくる。上擦《うわず》った貴美の視覚に、階段の下でひっくり返って呻《うめ》いている、自分の姿が拡大される。
 その頭の上で、母親と貴美が、言い争いを始めていた。
 母親の怒った顔が、貴美の視界に映される。
「どうして、お姉ちゃんを苛《いじ》めるの! 二人っきりの姉妹なんだし、あんたが気をつけなきゃしょうがないでしょう!?」
「だって、お姉があんまり、人にばっか頼るから……」
「仕万ないでしょ、病気なんだから! 貴美、今月はお小遣いカット! 反省しなさい!」
「えええ〜っ、そんなぁ。考え直してねぇお母さま。心入れ替えるから反省するから」
 貴美の情けない声を聞きながら、明美はもうしばらくの間、うずくまっていることに決めた。
 ほら、ご覧なさい。あなただって、お母さまに依存してるじゃありませんの。
 密《ひそ》かに勝ち誇ってみせるが、妹の一言は、明美の心に疼く密かな痛みを、刺激してしまっていた。
 ——あの子、間違ったことは言っていませんの。確かに私、他人様《ひとさま》に依存しなければ、まともに暮らしていけませんもの。
 わかってますわ。あなたに言われなくたって。
 感覚他人依存症。感覚を借りているうちに、思考が相手のものと重なって、離れがたくなってくる。だからこそ気をつけて、相手に依存しないつもりでいるのに。でも貴美には、そうは見えていなかった。
 いつか相手と溶け合って、自分というものがなくなってしまう……そんな恐怖が、常に心にわだかまる。
「怖いから、考えないようにしてましたのに」
 ——千香さんみたい方なら、そんな心配ありませんでしょうね。羨《うらや》ましいですわ。
 元気の塊《かたまり》のような千香を思い起こし、明美は嘆息した。
 意識と行動が、あれほど一致している人も珍しい。ときには行動が意識を上回り、支配している節さえある。
 体格のいい、格闘技の得意な若い男と同棲《どうせい》していると、女子たちに格好の話題を提供している千香だが、彼女ならどんな場合でも、自分の好きに生きていく。
 そんな、羨望《せんぼう》に近い思いがあった。
「誰にも依存しないで生きていくなんて、誰にもできるはず、ありませんのに……」
 ようやく体を起こし、呟いた明美の心に、自分の独語に対する、一つの違和感が閃《ひらめ》いた。
 意識に乗れなかった、若い男。明美に視覚を貸すことなく、意識に乗ることすらさせずに、転んだ彼女を助け起こし、歩み去っていった男の腕の温かみが、明美の心に蘇った。
「逢いたいですわ、あの人に」
 明美が意識を掴めない、ただその理由だけで、彼女は彼に逢いたかった。
 ——あの人は、きっと誰にも、依存していないんですの。
 他人に依存しない、完全独立の人格が存在するものか、明美にはわからない。
 ただ、拠《よ》り所が欲しかった。自分のような人間は、どこにもいない。その寂しさを、なんとかやわらげて欲しかった。
 少年が、自分の意志で動いていないことなど、明美は想像すらしなかった。


「はい、おしまい。ちょっと量を増やしてあるからね。明日の今頃まではもつはずよ」
 薬液を注入し終えた注射器を拭《ぬぐ》って、女はにっこり微笑んだ。
 袖《そで》をまくった右腕に、注射器の針が残した、血の痕《あと》が残っている。
 無表情のまま腕を揉《も》む自分を、相馬正一は途方に暮れて見下ろしていた。
 この部屋で、三人の男女に『天使の糞』を注射されてから、もう三日になっていた。
 ——薬の効果は、六時間。
 あのお兄さんは、確かにそう言った。
 最初に『天使の糞』を与えられた二日前、ある男を殺しに行く、自分の体を見ていることしかできなかった正一は、教えられた薄汚い雑居ビルに、目標《ターゲット》がいないことを知ってほっとした。
 そのまま待っていれば、六時間などすぐに経《た》ってしまう。そうすれば自分の体に戻って、何事もなく家に帰れると、そう思ったのだ。
 冷静に考えれば、帰してもらえるはずがない。三人の顔を、正一は見ているのだから。
 極道の世界を、よく知っているわけじゃない。けれど、ああいう世界の住人が、どういう行動に出るかは想像できる。
 彼が道具に選ばれたのは、あの三人に嫌疑がかからないようにするためだ。正一を野放しにする危険など、冒《おか》すはずがない。
 黄という、外国人らしい殺しの相手は、結局帰って来なかった。
 雑居ビルの入り口近くに潜《ひそ》み、しばらく待った末、正一の体はくるりと踵《きびす》を返し、元のマンションに戻ってしまったのだ。
 以来、もう八回ほど、正一は注射を受けている。その間一度も、自分の体に戻れない。
 すでに二日が経過して、自分が生きていたということ自体、長い眠りの間に見ていた夢だったような、そんな錯覚《さっかく》すら覚えている。
 ——このお姉さんたち、とことんぼくを使い倒すつもりらしい。だったら、黄という人を殺すまでは、ぼくは生きていられるのかも。
「じゃ、おやすみなさい」
 屈託《くったく》ない挨拶を残して部屋を出ていく身体に曳《ひ》かれ、正一も否応《いやおう》なく後を追う。首尾良く任務を果たした後の、自分の運命が気になるが、体に行かれては仕方ない。いまの正一は、体に従う影法師のようなものなのだ。
 後ろ髪引かれる思いの意識を引き連れて、『道具』が去った後、亜弓はくすりと笑って『三原』と名乗った男を見た。
「あの子、毎日注射を受けに来るのよ。黄を殺して、その後自殺するために。自分の運命、わかってるのかしら」
 双眸《そうぼう》に残忍な光を走らせて、紅《あか》い唇をぺろりと嘗《な》める。嗜虐《しぎゃく》的な性格を隠しもしない亜弓を見やって、男は肩をすくめてみせた。
「薄々、感づいてはいるでしょうね。でも、別の『道具』を使うわけにはいかないでしょう。偶然も、三つ重なれば必然になる……動機のない自殺体が、何人も出ては困ります」
「向こうの連中に、あたしたちのことを気づかせるきっかけになりかねないものね。はいはい、わかってます」
 頷いて、亜弓は笑みを浮かべて言った。
「情報が入ったわ。黄の奴、戻ってきてるらしい。明日にはケリがついてるわよ」
 喉を鳴らしそうな勢いで、亜弓は三原にしなだれかかる。
 女の肌の、掌に吸い付くような感触が、男の記憶を呼び覚ました。
 第三段階フローターとして覚醒して以来、男の感覚は、以前とは違うものになっている。本来は脳が発生する、電気的な信号の集積でしかないはずの意識を、他人の脳を利用して永遠に保つ、不死の存在と化した男にとって、女と体を合わせる理由は、ともすれば忘れがちになる人間の感覚を忘れない……ほとんどそれだけの意味しかもってはいない。
 さらに、まだ生身だった頃、命を削って仕事をしていた時代の習慣でもあった。互いに明日をも知れない男と女。互いの肌を合わせているときのみ感じる充足感が、闇の世界に生きる者たちに、生きている己を確認させる。
 次第に高まる亜弓の喘《あえ》ぎを聞きながら、しかし男の瞳は、果てしなく暗く、沈んでいく。
「この感覚も、俺のものなのか、それとも俺が乗っ取った、この男の脳が覚えている記憶に過ぎないのか……自分が本当に自分なのか、フロート効果の後には不安になる。そう言っていたよな、リルビィ」
「んん……? 何か言った? 三原くん」
 汗を飛び散らせ、激しく体を動かしていたはずの亜弓が、眉《まゆ》を顰《ひそ》めて問いかけた。
「何でもありませんよ。独り言です」
 にべもなく言ってから、思い出したように付け加える。
「あ、そうそう。亜弓さんにお願いしていた、仕事の確認。明日は、僕も行きますよ」
 何気なく付け加えた一言に、亜弓は相づちを打ちかけて、不審げに小首を傾《かし》げて言った。
「それは、あたしの仕事よ。あんたまでついてくることはない。危険は分散すべきだわ」
 警戒心を見せる亜弓をなだめるように、男は用意した理由を口にする。
「あの坊やのように、連続して薬を使った例は、どのデータにもないんです。それがどんな効果をもたらすか、興味はありませんか?」
「なるほど……有効かもね。わかったわ」
 亜弓も、この世界で生き抜く人間だ。
 男の言葉に正当性を認め、素直に頷いた。
「けど、あたしたちがつるんでいるところを誰かに見られるとまずいわ。わかってるよね」
「心得ていますよ。離れたところから見ています。気取られるようなヘマはしません」
 亜弓と言葉を交わしながら、男は別の女の面影《おもかげ》を、脳裏に浮かべている。
 ——組織にとって、リルビィは大事な持ち駒《ごま》だ。黄の近くに、置いているに違いない。
 おまえは、他の女たちとは違うだろうか。俺のところに戻ってくるか、それとも組織に刃向かう者として、殺し合うことになるか。
 そう考えたとき、男の心に一瞬だけ、熱いものが走ったように思われた。
 五年前のあの日。およそ考えられる限りの苦痛を与えられた末に肉体から解放され、不死を獲得したときから、魂に開いたままの穴を、リルビィが埋めてくれるかも知れない。
 微《かす》かな期待が、男の心に射し染めた。
 裏の世界に生きる者ならば、決して抱いてはならない夢だった。


「なんだ。まだ落とし物、渡してなかったの?」
 翌日の帰り道、千香は呆《あき》れたような顔を明美に向け、問いかけた。
 瑞穂も一緒。しかし反応が面白いから、明美はもっぱら千香にシフトする。
「わぁ……千香ちゃん、面白いですの」
 体と意識が、完全にシンクロしている。他人の意識を渡り歩き、建前《たてまえ》と本音がかけ離れた人々を数多く見ている明美には、千香の反応は清々《すがすが》しい。
 明美が自分の視覚を借りて、面白く意識を覗き見していることなど露《つゆ》知らず、千香はしかつめらしく片眼をつぶってみせた。
「だったら情報、提供したげるよ。あの人、昨日|一昨日《おととい》と、池袋のサンシャイン裏手にいたよ。誰かを待ってるみたいに座ってた」
「ええ!? 本当ですの?」
 眼を丸くする明美に向かって、千香は威張《いば》って頷いた。
「ほらあたし、ひろせ先生の特待生やってるじゃない? サンシャインで料理教室開いてるから、よく行くんだよ。そのとき見たんだ」
 千香が居候《いそうろう》の大男ともども、最近人気の天才料理研究家から、直弟子として認められたという噂は、明美もみんなから聞いている。
『きっと、今日もそこにいるよ。あたしも行きたいけど今日の予定は至高のフランス料理、ルイ一五世の晩餐会《ばんさんかい》に供された、リ・ド・ヴォー・ア・ラ・サント・メニュ! ああ、友だち甲斐《がい》のないあたしを許してプリーズ!』
 心と体で同時に叫び、千香はくるりと背を向けて、猛スピードで走り去る。
「待ってよ千香ちゃん! それじゃ、明美。しっかりね」
 振り返った瑞穂はウインク一つ。千香の後を追っかけていくのを潮に、明美は駅に向かって歩く、生徒の一人にシフトした。
 もう、焦ることはない。彼のいる場所が、取りあえずわかったのだから。
 人から人へと飛び移りながら、彼女は駅へと向かっていった。


 人の流れを縫《ぬ》いながら、泳ぐような足取りで歩く明美を、密やかに追う者がいた。
 派手な柄のTシャツをだらしなくひっかけた、今風の若者だ。
 虚《うつ》ろな眼を虚空《こくう》に向け、付かず離れず明美を追う青年の頭上には、わけがわからずおろおろする、もう一人の青年がいた。
 明美の暗殺指令を受けたリルビィが、道具として選んだ青年だ。住所不定無職で、粗暴な少年のチームを率い、無数の恐喝《きょうかつ》、障害事件を起こしている。世の中に必要ない害虫だ。
 道具を操るリルビィは、注意深く通行人を盾《たて》にして、明美を見失わないよう尾行する。
 普通に進むなら障害となる人も街路樹も、彼女を妨《さまた》げることはない。第二段階フローターを防げるものは、この世に存在しないのだ。
「とはいえ、普段の仕事より厄介《やっかい》よね。彼女もフローター。あたしの姿もあの屑《くず》の意識体も、しっかり見えるんだから……」
 警戒心をこめて呟き、リルビィは少女の後を追う。
 私鉄とJRを乗り継ぎ、ターミナル駅の一つを出て、少女が足を向けた方角を知ったリルビィの顔に、訝《いぶか》しげな表情が浮いた。
「あの娘……まさか、あたしたちのオフィスに行くつもりじゃないでしょうね」
 リルビィの中で、疑念が膨れ上がる。
 明美は、自分の価値に気づいたのか? 希有《けう》な先天性フローターとして、自分が希少価値をもつことを知り、何らかの方法で、ファンとの接触《コンタクト》を取ろうと考えたのか。だとすれば、処分の方針も、変更になる可能性は捨てきれない。
 リルビィの迷いに従って、若者の歩みが遅くなる。しかしそんなことは知りもせず、サンシャイン通りから外れて裏通りに踏み込んだ明美の顔が、にわかに明るく輝いた。
「あの、あのぉ。待ってくださいません? 落とし物、渡しに来たのですけれど」
 見覚えのある男性が、崩れかけたコンクリート製の階段を降りていく。
 明美の呼びかけは聞こえないらしく、振り返る様子もない。それまで乗っていた、板前風の男から跳《と》び離れ、明美は少年に、シフトしようと試みる。
 つるん。
 やっぱり、失敗した。視界が闇に閉ざされ、蹈鞴《たたら》を踏む感覚。今回は準備していたために、転ぶことなく立ち止まる。
「やっぱり、シフトできませんわ」
 何となく嬉《うれ》しくなって、別の誰かにシフトして、少年の姿を見ようと試みる。
 しかし、支配範囲には誰もいない。そのとき、初めてこの辺りに、シフトできる人がいなかったことに思い当たった。
「不覚ですわ。どうしましょう」
 さすがに戸惑い、泣きそうになった明美の、見えるはずのない視界をよぎった二本の腕が、彼女の意識を抱き留めた。
「え?」
 いままで感じたことのない感覚に、明美は眼をしばたたく。その意識が強引にくるりと回されて、どこかほっとしたような、優しそうな顔が視界に映った。
「あ、あの……」
 わけがわからずに、明美は眼をしばたたく。
 少年は、階段を降りていったはずだった。それに、他人に依存しなければ視《み》ることができない自分に、なぜ少年の顔が見えるのか、それがどうにもわからない。
 困惑する明美に、少年は手早く説明した。
「驚かないで。ぼくたちは、いま意識だけなんだ。君は意識に掴まって、人から人に歩くんだろ? ぼくの意識は、ここにある。だから君は、ぼくの身体には、掴まることができなかったんだ」
「え、ええと……」
 少年の解説も、明美にはよくわからない。
 とりあえず、眼の前の少年にシフトする。と、嘘のように闇が祓《はら》われて、光が視界に戻ってきた。
 少年の身体は、薄汚れた雑居ビルに向かっている。そして、明美の身体は茫然《ぼうぜん》と、途方に暮れたように立っていた。
「つ、つまり、あなたとあなたの身体は、別々ということですのね? つかぬことを伺《うかが》いますけど、離れていてよろしいの?」
 明美の問いに、正一は思い出した。
 自分の身体が、何のために池袋まで、はるばる来たかということに。
 しかし、気づいたところで、彼には何もできなかった。ただ明美の意識体を抱き寄せて、哀《かな》しげに見送り、言葉を紡《つむ》ぐ。
「好きで離れてるわけじゃないよ。エンジェルなんとかって薬を打たれて……君は違うの?」
 どうも話が食い違う。首を傾げる正一に、彼の意識に掴まる少女が、訝しそうに問いかけた。
「あの方……あなたのお知り合いですの?」
「え?」
 ぼんやり考えていた正一は、驚いて視覚に意識を向けた。
 派手なTシャツを着た青年が、ポケットに手を突っ込んだまま、何気ない様子で明美の身体に近づいていく。
 見るからにだらしない、街にたむろする与太者《よたもの》の、正一には見覚えのない顔だった。
「知らないな。あんな奴、見たことも……」
 言いかけて、正一は見た。青年の頭上一メートルほどの空間に、青年が浮いている。
 憔悴《しょうすい》しきった顔で、おろおろと頭を抱えている。顔を歪ませ、彼が見下ろす中で、青年は無表情に、明美の身体に歩み寄り、ショルダーバッグの中から、刺身包丁を取り出した。
 その瞬間、正一は気づいた。青年が正一自身と同じように、『道具』に仕立てられていることに。
「あいつ……いけない。君を殺すつもりだ」
「はい? 何ですの?」
 正一が漏らした呻きに、明美が怪訝そうに答えたとき。
 少女の脇腹に、異様な感触が走った。
 熱い、重い痛みが突き上げ、明美は声を失った。ただ正一の意識にすがりつき、眼を大きく見開くばかり。その間にも、脇腹から滑り込んだ金属の刃は明美の内臓を掻き回し、ずたずたに切り裂《さ》いて、濡《ぬ》れた感触とともに引き抜かれる。
「あ……あ、あ……」
 想像を絶した激痛が、身体の中心から突き上げる。明美の口から紅い液体が噴き出して、それに伴い意識の方も、蒼白《そうはく》になって咳《せ》き込んだ。
 虚ろな眼を見開いたまま、がくがくと震える明美の首筋に、紅く濡れた刺身包丁が差し込まれた。
 ずぶずぶと、柄もとまで突き込まれ、明美はさらに激しく痙攣《けいれん》する。大量の鮮血が、薄紫の制服を、無惨な赤に染めていく。
 喉と胸の内部を掻き回していた包丁が、力ずくで跳《は》ね上げられた。青年の手首が妙な角度に折れ曲がり、明美の骨も肺も心臓も引き切られ、最期に首を半分以上|斬《き》り裂いて、血塗られた包丁が、紅い飛沫《しぶき》とともに跳ね上げられた。
 無惨な首の切り口を晒《さら》し、明美は濡れた地面に頽《くずお》れた。もちろん、命の火はとっくの昔に、倒れる前に消えていた。
 同時に、明美の意識も、充実感を失った。
 みるみる希薄になっていく明美の意識を、正一は必死に抱き締めた。
 頭のなかで、そのとき火花が散るような感覚があった。自分が何かと接続したような、そんな感覚を意識することもなく、正一は必死になって、明美を抱きすくめるしかできなかった。


 依頼を受けてから、ちょうど七十二時間。
 標的は死亡。意識も脳が死んだ以上、間違いなく消滅する。
 組織の憂《うれ》いは、これで取り除かれた。
 道具に使われた青年は、紅く染まった包丁で、自らの首を切り裂いた。
 青年が息絶え、意識が消滅する様を、リルビィは苦い思いで見守った。
「あの娘を、殺す必要はあったのかしら。貴重な真性フローターなのに。組織に帰属させる方法も、あったと思うけど」
 フローター能力をもったばかりに、死ななければならなかった少女の運命に思いを馳《は》せて、リルビィはもう一度嘆息した。
 それにしても、あの少年は何だろう。
 少女の意識は、追い出された少年の意識に乗っていた。あの少年も、真性フロートなのか。それとも……。
 いずれにしても、もう少女は消えただろう。いつにない疲《つか》れを覚えながら、視覚を少年の意識に向けて、リルビィは言葉を失った。
 身体は、とっくに死んでいる。なのに、少女の意識は、消滅してはいなかった。
 少年の意識に抱きすくめられ、いまだに存在を保っている。二人の電気信号が同調し、補完し合っているように思われた。
「ど、どうして……?」
 茫然と口走るリルビィに、男の声が答えた。
「フローター同士が同調すれば、母体の信号が消えても意識は保てるか。第二段階を飛び越えて、第三段階に移行したようだ。それも、新しい事例だな。そう思わないか、リルビィ?」
 思いもかけなかった方角から聞こえた声に、リルビィは反射的に振り向いた。
 彼女とほぼ同じ高度に、引き締まった体躯《たいく》の男が佇《たたず》んでいた。
 微笑を浮かべたその顔を見た瞬間、リルビィは立ち尽《つ》くし、茫然と呟いた。
「ミハラ……本当に、ミハラなの……?」
 信じられない、とばかりにリルビィが紡ぐその言葉に、男の唇が吊《つ》り上がる。
 それは、闇の世界に生きる者のみが許される、極北の笑みだった。


[#改ページ]


  ◇ 土門弘幸


 オレが予定より遅れて池袋に着いた時、事態はあらかた片づいた後のようだった。
 人混みの中で、警官たちが野次馬を追い払っている。オレは周囲から頭一つ抜きん出た視界で、色眼鏡越しに状況を眺めやった。
 地面にはおびただしい流血の跡。パトカーがそばに停《と》まっていて、その中で事情聴取を受けているらしい少女が『見え』た。その隣には、少年もいる。
「結局、どういうことだったの?」
 横合いから声がかかる。動かした視線の先に、その辺のコンビニで売っているような、安っぽいサングラスをかけた女。
「大体はわかってるんじゃないのか? 今の[#「今の」に傍点]おまえなら」
「まあ……ね」
 女——リルビィは、肩をすくめる。


 真っ暗でした。
 私の視界を支配するのは闇、闇、闇……ひたすら、闇。絵の具でべったり塗り潰したみたいな、真性の黒の世界。
 なにがなんだか、わかりません。
 シフトに失敗した時とは、少し違います。その時にも視界はやはり真っ暗でしたけれど、それ以上に雄弁に、残りの四感が周囲を知らせてくれていたものですが……
 今は、違います。
 聴こえません。匂いません。味わえません。触れられません。全ての感覚が切り離され、ただ思考のみでたゆたってるみたいです。
 どう、なっているのでしょうか?
 ぼんやり『考え』ます。
 どうにも、居心地の悪い状況です。これは、やっぱり……
 死んだと、いうことなのでしょうか?
 困りました。私、死ななければいけないようなことは、していません。それは、理由がなくても人は死ぬものですし、そもそも死に意味などないかも知れませんが。
 ただ、思いますの。人は、『認識』することで、自分を『世界』に置いているのだと。
 例えば、私という人間を知らない人にとって、私の存在は、ないのと同じですわ。
 私のような感覚他人依存症の人間が『見る』世界が、大勢の普通の人たちには『無い』のと、同じように。
 あら……そうすると、誰にも『無い』ものは、『世界』にとっても、『無い』ということになってしまいますわ。なんだか、とっても哲学的。
 困りましたわ。今、私は『世界』を『認識』することができません。ということは私にとって『世界』は『無い』わけですわね。
 すると『世界』が『無い』のですから……私は『世界』に『無い』んですのね。
 なんだか頭が混乱してきそうですわ。まあ、今はこうやって意識だけですので、『頭』はないんですけれど。
 どうしたら良いんでしょうか。
 とりあえず、考えることにします。
 それしか、できないんですから。


 あたしの表情は、思考は、複雑だ。
「久しぶりだな。最後に |Komische Oper《コーミッシェ・オーパー》 で別れて以来か」
 呆然《ぼうぜん》としているが、それでいてどこか確信めいたものがある。眼前で笑みを浮かべる男が、紛《まぎ》れもなく死んだはずの男であることに。
 乾いた声が、震える。
「どうして? どうして……あなた、生きて、いるの?」
「死んでいるさ」
 ミハラは嗤《わら》う。張りつい光ような笑み。
「少なくとも、体はね」
 なにが可笑《おか》しいのだろう。ミハラは薄く嗤い続けている。その顔は、思わぬ再会に対し一欠片《ひとかけら》の喜びも抱《いだ》けないほどに、うそ寒い。
 はたと、気づく。
 フロートの間、意識は剥《む》き出しのまま浮かび上がる。そこには、なんの虚飾もない。ただ思ったままに動く。肉体の呪縛《じゅばく》を抜け出て。
 同じフローターと会うことなんて初めてだったから、気づかなかった。
 剥き出しの意識は、醜《みにく》い。限りなく、醜い。
「どうしたリルビィ。『顔』色が悪いな」
 ゆっくりと、ミハラが近づいてくる。手を伸ばす。頬に触れそうになる。
「寄らないでっ!」
 あたしは叫んだ。ヒステリックに。
「寄らないでっ、寄らないで寄らないであたしに寄らないでっ!!」
 叫び続けた。全身の敵意を籠《こ》めて、相手を睨《にら》みつける。
 おやおや、とミハラは両手を上げた。
「変わらないな、そういう所は。でもな」
 無造作に、再び手を伸ばす。あたしの体に怖気《おじけ》が走ったが、立てた爪で引き裂いてやりたい衝動に駆られたが……拒絶、できない。
「そういう所を、俺は気に入ってるんだよ。|Meine Liebe《マイネ・リーベ》」
 優しく嗤う、顔。醜い。限りなく、醜い。
 そっと触る、手。怖い。限りなく、怖い。
 けれどあたしの体には、痺《しび》れるようにとろけるように、甘美な震えが走った。


 まったく、冗談じゃなかった。
 女の子が倒れてる。きゃしゃな体をズタズタにされて、真っ赤な血の海の中、もともと色の薄い肌を蝋燭《ろうそく》みたいに真っ白にして。
 すぐにでも駆け寄りたいのに、無駄とわかっても助けてあげたいのに……『ぼく』は、行けない。目立たない位置で、こっそりしゃがみ込んでいる。けどそんなことは、どうでもいい。『ぼく』のことより、今は。
「ああ……ねぇ、しっかりして!」
 こんな当たり前のことしか言えない。ぼくの腕の中で、女の子がガクガク震えてる。目がうつろで、その顔は、血の海の中で倒れてる女の子と同じだ。
 ぼくと女の子(と外人の派手なお姉さんと見たこともないお兄さん)は、空中に浮かんで、地上の体とは関係なく、緊迫していた。
 夏休みの前の授業で救命法なんかは習ったけど、さすがにお腹《なか》や喉までズタズタにされた時の手当の方法なんか、わかりっこない。
 ましてや、浮かんだ意識の気つけなんて。
 女の子の体は、誰がどう見たって、もう駄目だ。死んじゃってる。完璧《かんぺき》だ。あれで生きてるなら、奇跡体験の番組に出られる。誰も信じないだろうけど。
 だけど、この腕の中の女の子の意識は、まだここにある。これがどういう状態なのか、正直ぼくには全然わからないけど、生きてるって言えるんじゃないだろうか。
 向こうで浮かんでる二人が、チラチラぼくらを見て、なにか言ってる。外国語みたいで、『声』はよく聞こえるけれど、なにを言ってるか全然わからない。
 どっちにしても、二人とも、ぼくらに構うつもりはなさそうだ。
「お願いだ……がんばって」
 ぼくは必死に、腕の中の女の子に呼びかけた。どうしてこうも必死になるのか、わからないままに。


「今更、なんだって……」
 リルビィが震える『声』で『言う』。頬に触れた俺の手から、わななきが伝わってくる。
「なんだって、あたしの前に現れるのさ!」
 さて、何故《なぜ》だろうか。
 実は俺もそれが知りたいのさ、リルビィ。
 彼女の姿を見た時、思わず俺は『飛び出し』ていた。本当ならば、組織に自分の存在を知られるようなことは、毛ほどもしてはいけない。それは重々わかっていた。
 だが俺は、己の衝動を抑《おさ》えきれなかった。
「あたしを、また縛ろうっていうの……?」
 彼女の、灼《や》けつくような眼差《まなざ》し。漆器《しっき》を思わせるその輝き。
 熱い。痛い。心地良い。
「リルビィ。わかってるだろ?」
 わかってるだろ? 俺よ。
「俺はおまえを愛しているんだ」
 俺はおまえに見て欲しいんだ。
「でなけりゃどうして、こうしてわざわざ、おまえの前に姿を現す?」
「……あんた、ちっとも変わってないっ」
 俺の『手』を弾《はじ》き、リルビィが激しく首を振る。髪が旗のように振れて、ほつれ毛が勝ち気な顔にかかる。
 その、眼。そこには俺が映っている。熱い。痛い。心地良い。
 触れなくてもわかる。今まさに、俺たちは繋《つな》がっている。
 憎悪《ぞうお》でもいい。嫌悪でもいい。恐怖でもいい。俺を『見て』くれリルビィ。
 俺を『認識』してくれ。
「わかってるの? 今やあたしは、あんたの敵なんだっ!」
「どうして、そう思う?」
「だってそうでしょ!? 組織の知らないフローター。あの坊やのことを知ってるふうだ。どう考えても、あんたの差し金じゃない」
 俺は賞賛の意を込め、短い口笛を吹いた。意識の世界で空気が揺れることはないが、その分だけ透《す》き通った音色が響く。
「まったくもって正解だ。そのとおり。聡《さと》くなったな、リルビィ」
「あんたのお陰でね」
 忌々《いまいま》しげな眼差し。全てを洗《あら》いざらい、ぶちまけてやりたくなる。五年間の過去からなにから……否《いや》、出会った時からの全てを。
 そうさリルビィ。おまえは俺の、愛《いと》しい醜い哀《あわ》れな人形。
 俺はおまえを育て上げた。殴った。嘘をついた。食い物にした。非合法の組織に売り飛ばした。化け物にした。平気で人を殺せるようにした。
 そして、愛した。
 ああそうだリルビィ。もっと俺を見てくれ。その時々で気まぐれに選ぶ、仮初《かりそ》めの肉体に窮屈《きゅうくつ》に閉じこもった『俺』じゃない俺を。俺を、俺を、俺を!


 なんだろう。ぼくの手は、さっきから熱い。
 しびれるようで。とろけるようで。
 それはきっと、この子に触れているからだ。
「目を……目を、さまして!」
 怒鳴るように呼びかける。彼女に、このまま消えてほしくない。死んでほしくない。
 元々は知らない子だ。なにも、そんな一所懸命になることなんて、ない。
 多分ぼくがこの場にいることなく、ニュースかなんかでこの子の死を知ったとしても、へえそうなんだかわいそうだな、くらいにしか思わなかっただろう。
 でも今は知ってしまった。触れてしまった。
「起きて!」
 いや、寝てるわけじゃないのかな。でも、そう言うしかない。自分のボキャブラリの少なさが、ちょっと悔《くや》しい。
 彼女のどこを見ているとも知れない目線を遮《さえぎ》り、覗き込む。
「ぼくを見て! 声、聞こえてる!?」
 なんだか酔っぱらった時の母さんを起こしてるみたいだった。意識がモーローとしてる人には、うるさがられても、とりあえず呼びかけるしかない。
 なんでここまで必死になるんだろう。
 ちょっと考えて、すぐに気づく。
 初めて薬を打たれた日、ぼくは……『ぼく』は、倒れた彼女を助け起こした。なんだかいい奴ぶってるみたいではずかしかったけど、少し誇らしかった。
 思えばあれが、『ぼく』が最後にした『いいこと』だった。
 彼女は、ぼくが生きた証《あかし》だった。
 なのにその相手が、死のうとしている。これは嫌《いや》だった。せっかく助けてあげたのに、という気持ちもあるし……もし彼女があのことで『ぼく』にお礼を言おうとしてここに来たのなら、今この場で死のうとしていることには、ぼくにも少し責任がある。
 平凡で、退屈で、つまらない今までを生きてきた、ぼく。そんなぼくだけが今、彼女を『認識』できている。ぼくしか、彼女を救えないんだ。
「しっかりして!」
 彼女の意識がハッキリしたからって、地上の彼女が生き返るわけじゃない。
「ぼくを感じて!」
 それでもぼくは、必死に彼女に呼びかけた。


 ミハラを見つめる。その、甘く嗤う表情を。
 ミハラを睨む。その、熱を帯びた眼差しを。
 ミハラを憎む。その、身勝手な振る舞いを。
 駄目だ。
 あたしは、駄目だ。
「どこまでいっても……」
 あたしは、ミハラの人形だ。
「そうさ。どこまでいっても、おまえは俺のものだ」
 もう一度、ミハラが手を伸ばす。駄目だ。あの手に触れられたら、あたしは駄目になる。忘れてしまう。独りになってからずっと守り通してきた、あたし自身を。
 できない。ミハラを忘れることなんて、ミハラを自分の中から消すことなんて、できない。もう、できない。だから。
 だから、黙《だま》ってミハラに触れられた。
 溶けそうになる。ミハラが触れた所から、じんわりと、意識の全てが溶けそうになる。
 溶けていく。ミハラの、驚愕の声。
「なっ……!」
 溶ける。あたしが溶けていく。あたしが?
 ちがった。ミハラが[#「ミハラが」に傍点]、溶けていく。あたしに。彼は呆然となって、呟く。
「フローター同士の接触は……剥き出しの意識同士の接触は……同調を……」
 流れ込んでくる彼の意識。彼の思考。彼の記憶。彼の想《おも》い。
「そうさリルビィ。どこまでいっても……」
 あたしはそれを、歓喜とともに受け容《い》れた。
 ミハラもそれを、歓喜とともに受け容れた。
「あんたは、あたしのものだ」
 痺れるようにとろけるように、あたしの体に甘美な震えが走った。


 なんだか本当に、色んなことを『考え』た気がします。まるで意味はないかも知れませんけれど、でも、一つだけわかりましたわ。
 私は、『認識』することで、『私』であれたんだなあ、と。
 誰かが「おまえなんか存在しない」と仰《おっしゃ》っても、私は存在しています。『私』の体は、ひどいことになってしまいましたけれど、今この闇の中で、私は確かに存在しています。
 だから……私は、生きています。
 そして、感じます。あのひとが、私に触れてくれています。私を、『認識』してくれています。あのひとの意識を、感じます。
 熱い。痛い。心地良い。
 確かに、あのひとを、『認識』できます。
 私は、目を覚ましました。
 ぱあっと、『世界』が明るくなりました。
 すごく眩《まぶ》しくて、まともに『見て』いられません。細めた『目』に、あのひとの顔が映ります。私が目を覚ましたことに気づいて、ホッとした表情を浮かべています。
「良かった。気がついたんだね」
 ああ、思ったとおり。
 このひとは、私を『認識』してくれます。
「はい。ありがとうございます」
 そのことに、お礼を言いました。だけど彼は、きょとんとしています。その『顔』がなんだかおかしくて、私は笑ってしまいました。
 良かった。まだ、ちゃんと『世界』は『有り』ます。
 私は、『生きて』います。
「でも……どうしよう。君の体が」
「大丈夫」
 大丈夫ですよ。だって、私は『生きて』いるのですから。
 私は、地面に倒れ伏した『私』を見つめました。完全に死んでいます。でも、それは、そう『認識』されているだけ。『世界』が、そう決めているだけ。
 私は、『生きて』います。『私』も、生きています。
 そう『認識』します。それだけで。それだけで、『私』の体は、嘘のように元の状態に戻りました。
「えぇっ!?」
 彼が、びっくりしています。無理もありません。今までの私だったら、こんなこと、とても信じられなかったでしょう。
 でも今は逆に、なぜこんな簡単なことができなかったのか、不思議な感じです。
「さあ、戻りましょう」
 彼の『腕』を取ります。ずっと私に触れ続けてくれていた『腕』。その温かみを、『認識』します。
 私は『私』を。彼は、『彼』を。
 元通り、『認識』します。


 オレとリルビィは、そろってパトカーの方を『見』た。ふ、と少女が視線を巡らせ、こちらを『見』返す。
「二、三日前かな。『乗られた』ことがある。その時は無視したが……」
 セット、とオレは呼んでいる。それは、フロートの『次』の能力。第一段階だの第二段階だのと区別をつけてはいるが、フロートは所詮《しょせん》、意識を肉体から切り離せるだけの力だ。
 だがセットは違う。『認識』するだけで、肉体を意のままに操り創り出せる。
 問題は生身でいる時に五感、特に視覚が鋭敏になり過ぎることだ。屋外では、色眼鏡が欠かせない。
「まったく、人が悪いわね。あんたが、そんな能力を持ってただなんて」
「べつに、敢《あ》えて言うことでもないだろ?」
 彼女は肩をすくめた。その動作は物憂《ものう》げで、どこか厭世《えんせい》的だ。
「最愛の男と永遠に一緒になれた。その割には、浮かない顔だな」
「虚《むな》しくなったのよ。あたしは結局、なにかに縛られてなきゃ駄目なのかな、って」
 フロート同士の意識の同調。それが、リルビィの覚醒を促した。今や彼女も、セットの力を手に入れている。
「まあ、気長に考えろや。組織には上手く言っておくさ。あの娘のことも、含めてな」
 事務所に向かって、オレは歩き出した。リルビィの声が、背中で弾ける。
「あんた、意外にいい男だったんだね」
「外見しか『認識』できない奴は、気づかないがね」
「フフ。じゃあ縁があったらまた。ファン」
 オレは手を挙げ、彼女に応えた。
 そして雑居ビルの入口をくぐり、いつもどおりの小柄でずる賢そうな体を『認識』する。それだけで、オレの肉体は服ごと変異した。
 リルビィにしてもあの娘にしても、大変なのはこれからだ。人間を飛び越え、意識だけが全てを支配する化け物に変わり果てても、平静でいられるだろうか。それは、『世界』から己を切り離すも同然のことだ。
「まあオレが心配するこっちゃないがね」
 オレはオレの、いつもどおりの日常を過ごすだけだ。


 山浦誠《やまうらまこと》は他人に依存する。
 感覚他人依存症、と医者は言った。そうなった原因は簡単で、去年、格闘家のストリートファイトに巻き込まれ、スーパーコンボの乱舞を喰《く》らったからである。対戦していた相手にまっすぐ突っ込んだ所を、サイドステップでかわされ、背景《モブ》キャラとして見ていた誠が喰らってしまった。
 多分、軸移動という概念がその格闘家にはなかったのだろう。
 ゲージ三本を消費しての超必殺技だ。バイトグラフィッカーが徹夜明けで描いたような誠では、後遺症は免れない。
 それでも、他人の視覚と思考を覗くことができる能力を得て、誠はそれなりに上手くやっていた。今も九段下の坂を踊るように漂う。
 シフト、と望めばそれでオーケイ。
 と、風景がわずかに暗くなった。高校生くらいのカップルの、女性の方に移った瞬間だ。
 どうやら、サングラスをかけているらしい。この冬場に、と少し驚きながら、改めて相手の視界を観察する。彼女の相方は優しげな顔をした少年で、なんだか二人はドイツの話をしているようだった。いつか行きたいなとか、あのひとはどうしてるかなとか、そんな会話。
 特に興味も抱かず、誠は視覚をシフト。
「……がんばってね」
 彼の意識を『見』送って、明美は呟いた。
 セット能力を得た彼女には、フローターに自分の意識を読ませないことなど簡単だ。
「いいのかい? 放っておいて」
 正一が聞く。
 明美は、柔らかく笑う。
「いずれ、あの人も出逢えますわ。依存するのじゃなく、一緒に歩いていける人に。……私が、あなたに出逢えたように」
「それも『認識』?」
 照れながらの問いに、明美は首を振る。
「希望、です。『世界』が、優しくあるよう」
 そう言って彼女は、正一の腕を取った。
 彼の温かみを、『認識』しながら。


[#改ページ]


『逢えば恋する乙女《ヤツ》ら』終了記念あとがきバトル!?


というわけで 6MEN dice BBS の面々が贈るリレー小説衝撃の第2弾をお届けしました。
読み終わったばかりの貴方は間違いなく興奮冷めやらぬはず。そんな読後の楽しみといえばあとがき。というわけで川上稔・古橋秀之・橋本紡・高畑京一郎・中里融司・土門弘幸の6人があとがきで闘います。敵は自らが腹を痛めて産み落とした作品か、その作品を共に築き上げた戦友か、それを奪い取った担当編集か、それともおのれ自身か……。


-------------------------------------------------------


川上稔 Minoru Kawakami


 編集ミネさんがこう言いました。
「あとがきバトルなんで他人なじって下さい。でないとすごいことしますよ。本気ですよお。べろんべろんだあ(本文ママ)」
 ……っつーても自分、一番手だから誰かに文句とか言おうにも言えないんですけど。これって放置プレイですか? そうですか。
 あ。
 何か一つ言うことがあったような気が。
 気のせいですか? そうですか。
 あ。
 やっぱり何かがあったような気が。
 やはり気のせいですか。そうですか。
 あ。
 それでも一つは何かあったような気が。
 それでも気のせいですか。そうですか。
 あ——。
 あ—————————ったあった、一言。
「言うてはならないこともある」
 うわ自分オトナっ(5%くらいな)。


-------------------------------------------------------


古橋秀之 Hideyuki Furuhasi


 前回の「闘う奴ら」では最後のパートを担当して収拾をつけるのにけっこう苦労したんですが、今回(二番手)は書きっぱなしであとの人に渡せてラクチンでした。が——
 今回は男の子と女の子が道でぶつかるところから始まるラブコメ、というフォーマットのはずが、完成したお話を読んだらぜんぜんそんな感じじゃなくて、なんでかなあ〜、と思ったんですが——よく考えたら、多分それ私のせいですわ。
 トップの川上さんのヒネリ気味の初期設定をわりと同じトーンで続けちゃって、これはあんまりよくなかったですね。もっとラブでコメな方向に引っ張っておくべきでした。別にフォーマットにこだわることはなかろう、という意見もあるかと思いますが、最初に「定型」を強く打ち出しておかなかった分、なんだか普通に始まって終わっちゃった感じですね。いや、よくまとまってたとは思うんですけど。


-------------------------------------------------------


橋本紡 Tumugu Hasimoto


 こんな手紙が届きました。
『私は庄治勝司である。私は腹を立てている。腹が立っていると腹がすく。立つのにすくとはこれ如何に。しかしブンガクがいける無敵格闘家にはその答えなど明瞭である。すくとは漉くである。怒りを漉しとって抑えよということである。というわけで私は通りかかったヤクザを踏み倒し目の玉をべろべろ舐めやめてくださいと言っても聞かずヤツが卑猥なる快感に目覚めるまで舐めつづけてやった。
 なぜ腹を立てているか語ろう。すなわち第二弾の痢励《リレイ》小説に私が出演していないことが下せんのである。痢、すなわち病を励ますとは恐ろしい試みだが——ともかく、それらしき影はあるものの、私の名が作中にない。怠惰なる作者どもを叩きのめさねばならぬ。その際の句はすでに考えてある。
「蹴又蹴飛蹴又飛蹴」
 素晴らしい句である。尊敬する阿波野青畝の本歌取りである。覚悟して待っておれ』
 第一弾読んでないとわからんな、これ……。


-------------------------------------------------------


高畑京一郎 Kyoitiro Takahata


 『逢えば恋する乙女ら』というタイトルが決まった時には、「べたべた甘々な能天気学園ラブコメ」がやってくるに違いないと思ってました。で、僕も、それなりに心の準備をしていたのですが……まさか、あんなハードなものになっていようとは。
 とりあえず、三番手の橋本くんに、ひと言だけ言わせて下さい。
「ヒロインを殺すんじゃねえっ!」
 『刺した』とか『撃った』とかならまだしも、『殺した』って書いちゃうんだもんなあ。なんて「ひどいひと(C土門くん)」なんだろう。そう来られたら、あっち方面に進むしかないじゃないですか。
 おまけに、僕が終われば、残りはあと二回分しかないし。
 このままじゃ終わらないかもしれない。そう思った僕は、つい三原に、あの台詞[#「あの台詞」に傍点]を言わせてしまったのでした。(ああしておけば、少なくとも「タイトルに偽りあり」という批判だけは躱せると思って。)


-------------------------------------------------------


中里融司 Yuji Nakazato


 最初は、夢を見てたんだ。『逢えば恋する乙女ら』……らぶこめ。いいなぁ、ラブコメ。今度のリレー小説はラブコメなんだ。古橋くんの口がタイトルを紡いだとき、中里は確かに薄桃色の、甘い甘い小説を夢見てた。
 その色が、血の色に変わった。高畑くんから送られてきた原稿を読んで、「ど、どないしろちゅうねん!」と叫んだのは本当だった。
 だって、橋本くん。指定されちゃあ。72時間後。そりゃもう根は好きな中里ですから、念入りにざくぐりごきと。ごめん土門くんと独語しつつ、悪魔の笑みを浮かべて。でも一所懸命に、らぶこめに戻そうとしたんだけど。土門くんに押しつけてしまった。ごめんね。
 黄さんも、実は文字通り魂を打つテコンドーの使い手とか夢想しましたが、あう、そうだったのか。色濃い血の臭いが、やがて甘く感じるほどに、闇と光の恋が展開されたとは。
 この次は堅忍不抜の精神で、クライマックスに挑戦したいが、どうですか峯さん!?


-------------------------------------------------------


土門弘幸 Hiroyuki Domon


「どこが『逢えば恋する乙女ら』?」
 書き終えての、感想です。うーむ。
 いや、最初はホントに『恋する』って感じで終わろうかと考えたんですよ。いやほんと。
 ただ……ねえ。だって、それまでが。特に中里さんが。どうしたもんかな、と。
 正一がリルビィに一目惚れするとか。
 謎の助っ人Fが颯爽と登場して明美を救うとか。ちなみにFの正体は福島。
 絶体絶命のピンチだミハラ! その時、彼の心に亜弓との思い出が甦るっ!! とか。
 貴美の正体は『組織』の特Aエージェント。いつものように姉を監視していた彼女は、洋菓子店で一人の青年と正面衝突し重傷を負う。残されたフリフリ・ピンクのエプロンには、『G・S』のイニシャルが。それを頼りに彼女は青年を捜し始めるそう、あのトキメキ☆の正体を知るために。とか。
 うーん


-------------------------------------------------------


「で、次の企画は……『逢えば夢見る奴ら』? それとも『逢えば馬鹿見る奴ら』? 『逢えば走り出す奴ら』? 『逢えば原稿を書く奴ら』? 『逢えば飲む奴ら』? 、『逢えば結婚する奴ら』? 『逢えば「青春とは何だろう」「青春とは闘いと恋だっ!」「そ、そうか、そうなのか。闘いと恋、それだけなんだな? それで終わりなんだな。終わってしまうんだな!?」「そうなのだよ明智くん、ではサラバだ、ハッハッハッハッハ…」(フェードアウト)「……明智くん? なにそれ? 訳わかんないよ」「僕にだって訳が分かりませんよっ! でも電波が命令したんです。僕が悪いんじゃないんです。許して下さい編集長」という奴ら』?」というわけで許して下さい編集長。だってあとがきのあとは普通奥付とかそういうものが入るわけで、他に思いつかなかったんですよ。え? もうそれはいい、もう諦めたとにかく次の企画は何かって? だから言ったじゃないですか。�闘い�と�恋�で終りだって。え? 聞いてない? だ、だ、だだだだ大丈夫ですよ。大丈夫。今は何も決まってなくても、地球は回っているんです。だから大丈夫です。知ってます? 地球そのものだって凄い早さで動いているんですよ。銀河だって回転してますし、その銀河だって宇宙の中心に対してもの凄い速度で……よ、良くは分かりませんがそりゃまぁとてつもない早さのハズです間違いないです。だから大丈夫。よくわからんが大丈夫。とにかくとりあえずいったん休止した 6MEN dice BBS の次なる展開をまぁ待て落ち着いて待て果報は寝て待てともいうし……ね、お願い。


予定は未定 だが彼等は必ず還ってくる————いつか。


THEY WILL BE BACK !!


[#改ページ]


底本
電撃hp Volume 9
発 行 二〇〇一年一月五日 発行
著 者 白井信隆
発行者 佐藤辰男
発行所 株式会社メディアワークス


[#改ページ]


訂正部分


P.42 三段一三行目
彼女はまるで迷子にみたいに立ちつくした。
———彼女はまるで迷子みたいに立ちつくした。


[#地付き]校正M 2007.11.01
  • 0
    点赞
  • 1
    收藏
    觉得还不错? 一键收藏
  • 0
    评论
评论
添加红包

请填写红包祝福语或标题

红包个数最小为10个

红包金额最低5元

当前余额3.43前往充值 >
需支付:10.00
成就一亿技术人!
领取后你会自动成为博主和红包主的粉丝 规则
hope_wisdom
发出的红包
实付
使用余额支付
点击重新获取
扫码支付
钱包余额 0

抵扣说明:

1.余额是钱包充值的虚拟货币,按照1:1的比例进行支付金额的抵扣。
2.余额无法直接购买下载,可以购买VIP、付费专栏及课程。

余额充值