日语小说连载_7/8

  7


 薄暗い店を出た私たちは、火村の希望で現場に戻ることになった。地下鉄を長堀鶴見緑地《ながほりつるみりょくち》線、谷町《たにまち》線と乗り継いで都島駅まできたところで、助教授は「沢口彩花に確認したいことがある」と言い出した。何か聞き洩らしたことがあるらしい。もう七時をとうに過ぎ、初夏の日も暮れなずんでいた。
 留守でなければいいが、と思いながら訪ねると、彩花は店番をしていた。母親は夕食の支度をしているらしい。
「何か判ったんですか?」
 私たちの顔を見るなり、彼女は身を乗り出した。
「いいえ。そうではなく、あなたに訊き忘れていたことがあったんです。一つだけ答えてください」
 火村は手帳を取り出して、白紙のページを開く。
「優嗣さんは意識を失う直前、壁にYと書き記したんですよね。その時、血のついた彼の指がどう動いたのか正確に思い出して欲しいんです」
 彩花は手帳とペンを受け取りながら、「はぁ」と頼りない声を出す。
「私が確かめたいのは、彼が書こうとしていたのが本当にアルファベットのYなのかどうか、ということです。そこの判断を誤ると、捜査方針に狂いが生じかねませんので。彼がどのようにYらしきものを書いたのか、忠実に再現してください」
 彼女は「はぁ」ともう一度言ってから、ペンを手にしたまま五秒ほど考え込んだ。
「こう……ですね」
 まず縦に棒を引く。それからV。
 不自然だ、と私は瞬時に思った。
「Yという字を書く時、そんな書き方をするかな。書き順がおかしい。どうです、鮫山さん?」
 自分の掌に大きくYの字を書いてから、警部補は「書きませんね」と私に同意してくれた。
 アルファベットには正式な書き順などない、と聞いたことがある。だから、Yをどのように書いても人の勝手ではあるけれど、最初に縦の棒を下ろして、後からその上にVをくっつけるというのは異例なのではあるまいか。あり得ない、とまで断言はしないが。
「その時は何とも感じませんでしたけれど、こういう書き方って普通はしませんね」
 彩花も訝しんでいる。
 これはYではない。彼の手許《てもと》が狂って、偶然にYの形になってしまっただけなのだ──おそらく。
 そうだと仮定しよう。では、彼は本当は何を書き記したかったのか? ローマ数字のⅣやⅥと書いたつもりだったのかもしれないし、Mと書きかけたのかもしれない。Nがずれて歪《ゆが》んだ可能性もあれば、はたまたIとVの二文字だったとも考えられる。もちろん、数字やアルファベットとはかぎらない。平仮名や片仮名、漢字の何かを書きたかったのが、とんでもなく崩れてしまったのかも。
「Yでないとしたら何だったのか、確かめることは不可能やな」
 それが私の結論だった。火村は、また人差し指で唇をひと撫《な》でする。そして、手帳とペンを彩花の手から取った。
「どうもありがとう。参考になりました」
 沢口洋品店を出て現場マンションに向かいながら、私はまっすぐ前を見て歩く火村に話しかけた。
「壁のダイイング・メッセージ解読は絶望的やな。どんなふうに歪《ゆが》んだ可能性もあるわけやから。ややこしい漢字のごく一部だったのかもしれんし、ひょっとすると変な書き順で書いたYだった、という可能性も残る。本当はどうだったのかは、死んだ山元優嗣にしか判らんことや」
 これに対する火村の返事は短かった。
「そうかな」
 解けるというのか? 馬鹿な。私は反論せずにはいられなかった。
「無理や。ぐちゃぐちゃに歪んだ文字かもしれんのやぞ。いや、文字である保証すらない。あれは絵やったのかも。可能性は無限にある。そこから唯一の正解を導く方法があるわけがない」
「可能性が無限にあるとは思っていない」
 相変わらず、彼はまっすぐ前を見据《みす》えたままだった。前方に〈グランカーサ都島〉が見えてくる。ほとんどの窓に明かりが灯っていた。
「鮫山さん」
 火村は不意に警部補に向き直る。
「現場の下の部屋の山崎さんとやらに、話を伺いたいんです。凶器のギターが床に落ちた時の音を再現してその聞こえ方を確かめてもらおう、と船曳警部がおっしゃっていましたね。あれをお願いしたい」
 鮫山は了解した。
「山崎氏がお留守でなければいいんですけれどね。株で食べている、と豪語している人です。家で仕事をしているということでしたから、ご在宅だと思うんですが」
 四階に上がり、504号室の前に立つ。山崎洋二と書かれた表札の下のチャイムを鳴らす前に、火村は私にこう言った。
「いいか、アリス。思いがけないことがあっても、顔に出すな」
「……何が起きるって言うんや?」
「それは楽しみにしてな。何も起きないかもしれない」
 ひどく気になったが、問い質している間はなかった。火村がチャイムのボタンを押し、すぐに「はい」という返事がインターホンから返ってきたからだ。助教授は、鮫山に応えてもらう。
「昼間、お伺いした警察の鮫山です。今、ちょっとよろしいでしょうか? お時間はとらせませんので」
 ドアが開いた。顔を出したのは、黒いジャージの上下を着た三十代前半ぐらいの男だった。不精髭《ぶしょうひげ》が伸び、頭髪はぼさぼさだ。終日、パソコンを相手に株取引をしていて、身形《みなり》に気を遣わないのかもしれない。ついでに血色も悪い。
「お食事中ではなかったですか?」と警部補が言うと、ジャージの男は「いえ」と答えた。
「それならよかった。実は、昼間お話しした実験をしたいんです。これから上の部屋で犯行の様子を再現するので、昨夜の物音と比べてどうかを聴いてみてくださいますか? それで、もしも違った点があれば教えて欲しいんです。五、六分ですみますので。──それから、こちらは犯罪社会学を専門になさっている火村先生と有栖川さんといいます。このおふた方も実験に立ち合っていただきたいんです。かまいませんか?」
「はぁ……はい、いいですよ」
 ドアが大きく開いた。鮫山は腰を折って礼を述べた。
「では、私は上の部屋に参ります。今から五分後にある音をたてますので、注意して聴いていてください」
 警部補は階段で五階に上がっていった。504号室の主は無表情のまま「どうぞ」と私たちを招き入れてくれる。リビングのテーブルやソファの周辺に、新聞や経済雑誌が乱雑にちらばっていた。どの雑誌にも、たくさん付箋がついている。本当に投資で飯を食っているらしい。
「儲《もう》かっていますか?」
 私はつまらない質問をする。投資家は「そこそこは」と微笑した。うまくやっているらしい。
「階上で音がした時、私は奥の六畳間にいたんです。実験なら、そこにいた方がいいですね」
「そうですね」と私が応える。火村は何故か、じっと投資家の横顔を見つめていた。おかしな奴だ。彼の頬に何かついているわけでもないのに。
 机上にパソコンが二台並んだ六畳間に入り、鮫山の実験を待つ。楽器を粗末に扱って心苦しいが、優嗣の部屋にあったレス・ポールのギターを床に投げ落としてみることになっていた。
「もうそろそろですね」
 腕時計を一瞥《いちべつ》してそう言った時、火村が「あのぅ、失礼ですが」と声をかけた。
「はい、何でしょう?」
「どこかでお目にかかっていませんか?」
「私と先生が……ですか?」
 火村は頷く。それは奇遇だ。だから彼の顔をしげしげと見ていたのか。
「大学の先生に知り合いはいないんですけれどね。はて、どこでお会いしたんでしょうか?」
「それを度忘れしてしまって……。『やまもと』さんですよね?」
「あ、はい、そうです」
 私は右手で口をふさいだ。驚きの声を圧《お》し殺すために。


  8


 それから三日後。
 捜査本部は、504号室の住人を山元優嗣殺害事件の犯人として逮捕した。被疑者が全面自供したのが拘留二日目である。当局は拘留期間を延長してさらなる取り調べを行なったが、明確な殺意の立証は困難であると判断。かくして、『やまもと』は傷害致死容疑で送検された。

 

  • 0
    点赞
  • 0
    收藏
    觉得还不错? 一键收藏
  • 0
    评论
评论
添加红包

请填写红包祝福语或标题

红包个数最小为10个

红包金额最低5元

当前余额3.43前往充值 >
需支付:10.00
成就一亿技术人!
领取后你会自动成为博主和红包主的粉丝 规则
hope_wisdom
发出的红包
实付
使用余额支付
点击重新获取
扫码支付
钱包余额 0

抵扣说明:

1.余额是钱包充值的虚拟货币,按照1:1的比例进行支付金额的抵扣。
2.余额无法直接购买下载,可以购买VIP、付费专栏及课程。

余额充值