日语小说连载_9

 9


 練習スタジオの厚くて重い防音扉を押し開けて入ると、浜本欣彦と用賀明がベースとドラムスの掛け合いをやっていた。床に座ってペットボトルのコーラを飲んでいた沢口彩花が、私たちに最初に気づいてぴょこんと立ち上がる。
「よくいらしてくださいました、先生方。お忙しい中、ありがとうございます」
 火村は、気にするな、と言うように首を振って、砕けた調子で言う。
「夏休み中だから、そんなに忙しくないんだ。こっちの小説家はいつも夏休みみたいなもんだし」
 大きなお世話だ。事実だとしても、他人に言われたくはない。
「お呼び立てして、すみません」
「ご無理を言いました」
 浜本と用賀が演奏の手を止め、私たちの方にやってくる。用賀はサングラスをはずして、胸ポケットにしまった。
「昨日が四十九日でした。早いものです」彩花がしんみりと言う。「優嗣君がいなくなった、という実感がまだ湧《わ》かないんですけれど……。ただ、犯人がすぐに捕まったことだけは、せめてもの救いです」
「火村先生と有栖川さんのおかげです」
 浜本がパイプ椅子を両手に提《さ》げてきて、私たちに勧めてくれた。バンドの面々も椅子に掛ける。
「犯人は完全に自白したんですよね。裁判になったら証言を覆したりせえへんやろか、と心配しているんですが」
 スティックを手にしたドラマーはそれだけが気懸かりだと言う。
「大丈夫だよ」と火村は請け合う。「犯人の供述には確かな一貫性があるし、優嗣さんの爪の間に残存していた繊維は『やまもと』のジャージのものと一致した。また、優嗣さんを殴打した直後の興奮からか、犯人は鼻血を流したことを自供していて、その血痕を拭《ぬぐ》った痕跡も供述どおりの場所で検出されている。さらに、事件の原因となった〈配達物〉の包みには、ちゃんと優嗣さんの指紋が遺っていた。今さらじたばたしても、無駄な抵抗というもんだ」
「そう聞いて安心しました。あとは厳しい裁きを希望するだけです。それで優嗣君が帰ってくるわけでもないけど……」
「もう少し元気出せよ、彩花ちゃん」浜本が肩に手を置く。「今日はガンガン弾きまくるところを火村先生たちに聴いてもらうんだろう? 優嗣の追悼セッションなんだから、情けない音を出されちゃ困る」
 今日を最後に、この三人で演奏することはなくなるのだそうだ。これからどのように音楽を続けていくのか決めていないままで。火村と私は、その記念すべきステージにご招待されたわけだ。
「それにしても、ひどい話やな。宅配便の誤配が原因であんなことになったやなんて。もし優嗣が、『なんや、こんなもん。知るかい』と不親切に棄《す》ててしまいでもしてたら、殺されることはなかったのに」
 そう言う用賀と違って、彩花は優嗣にも腹を立てている。
「『お宅の荷物が間違ってうちに届きました』と親切に持って行くだけやったら、何も起きへんかったんでしょう。彼も悪い。自分当ての宅配便やと思って開けてしもうたまでは仕方がないけど、それがヤバイものやと知って、あんなこと……」
 山元優嗣の許に誤って配達された荷物。住所等はすべてローマ字で表記されており、送り主の名前はなかった。誰からだろう、と開けてみると、中身はビニールパックされた白い粉末だ。これは何なのだ、と不審に思った優嗣はあらためて宛名を見ると、そこには『Yoji Yamamoto』とあった。自分の姓名とよく似ている。住所の最後が504となっているのを見て、やっとピンときた。〈グランカーサ都島〉の部屋番号は、縁起を担《かつ》いで変則的なつけ方になっていて、4で始まる部屋がなかった。だから、五階にある彼の部屋が604号であり、その真下の部屋が504号になっている。この荷物は、真下の部屋の住人に宛られたものなのだろう、と彼は推察した。そして、504号室の下りて行ってみると、表札には『山崎洋二』とあった。『Yoji』は合っている。『Yamamoto』は『Yamazaki』の誤記なんだな、と思ったことだろう。
「好奇心が災いしたな」用賀が残念がる。「この白い粉は麻薬なんやないか、と怪しんで、サンプルをくすねたのがまずかった」
 ビニールパックの内容物は純度の高いヘロインだった。送り主は東京在住のアメリカ人の某。株だけでは食べていけない504号室の住人は、インターネットで知り合った某からヘロインを購入し、自分も用いながら転売して稼いでいた。
「高価なクスリをくすねたりしたら、少量でもすぐにばれるわ。それで犯人は、秘密が露見するんやないか、と恐れたんや」
 浜本の見方は少し異なる。
「犯人は、『山元優嗣に脅迫されていた。そのことについて彼の部屋で話し合っているうちに激高してしまい、近くにあったギターで思わず殴った』と供述しているだろ? 僕は、あれは苦しまぎれの言い逃れでもないんじゃないか、と思っている。優嗣は本当に脅しめいたことを言ったのかもしれない」
「どうして優嗣君がそんな卑劣なことをするって思うの? 軽はずみなことは言わんといて。彼の名誉に関わることやよ」
 むくれる彩花を、浜本はなだめる。
「怒らないでくれ。優嗣を侮辱するつもりはないんだ。小遣い稼ぎを目的に恐喝をしてた、とは考えていない。もしかしたら、あいつは自分の中の〈悪意〉を発動させてみたかったのでは、と想像しているだけなんだ。ほら、優嗣、言ってただろ。『人に本気で悪意をぶつけたり、ぶつけられた経験がないから詞が書けないのかもしれない』とか」
「まさか、そんなことで優嗣君が……」
「穿《うが》ちすぎやで、浜本」
 彩花と用賀は、その想像を否定した。私には何とも言えない。火村も黙って聞いているだけだった。
「まぁ、いいや」と浜本はその話を打ち切って「それにしても、『山崎』と書いて『やまもと』と読む、なんて苗字があるとは知らなかった。日本人の名前は奥が深いね」
 私にとっても驚きだった。山元優嗣と山崎洋二の出会いの情景が目に浮かぶ。
 ──604号室の者です。荷物が間違って届いたみたいなんですけれど、こちらでいいんでしょうか? 504号室の『Yoji Yamamoto』宛てになっているんですけれども。
 ──それなら私です。山崎と書いて『やまもと』と読むんです。
 ──えっ、そんな読み方があったんですか? 私も『やまもと』という名前なんですけれど、初耳です。
 私はものの本で調べた結果を話す。
「『やまもと』というのは山の麓《ふもと》という意味で、『やまざき』は山の先っぽを指す。ですから対照的なようですけれど、見方を変えれば同じ意味になるんやそうです。視点を転じれば、人間にとっての山の頂上は神様にとって山の麓になります。それで、山崎を『やまもと』と読むんやそうです」
 仮説なのかもしれない。これが正しいのだとしたら、平安神宮にある〈右近の橘《たちばな》〉と〈左近の桜〉のようなものか。あれは神殿から見ての右、左である。
「山崎と書いて『やまもと』と読む、という苗字が存在するのは判りました。せやけど、山崎洋二は『やまざき』としてみんなに認知されてたそうやないですか。刑事が聞き込みに行った時も『やまざきさんですか?』『はい、そうです』と応対してたんでしょ。山崎の本当の読み方を隠し通せると思うてたんですか?」
 用賀の疑問に火村が答える。
「隠し通すつもりなんか、彼にはまるでなかったのさ。だって、優嗣さんが『やまもと』と言い残して死んだことを、犯人は知らなかったんだよ。俺の苗字の本当の読み方を刑事に知られてはいけない、と考えるわけがない」
「それやったら、なんで『やまざき』と読むふりをしていたんでしょう?」
「面倒だったからさ」
「はぁ?」
 スティックを玩《もてあそ》んでいた用賀の手がぴたりと止まる。
「面倒だから『やまざき』で通していたんだ。本人がそう言っている」
「面倒だったからって……大事な大事な自分の苗字ですよ? 『やまもとと読んでください』とアピールするのが当然やないですか?」
「君はそうしているんだね?」
「は? ……ああ、そうですよ。『あきら』やなしに『めい』と読んでくれ、と自己紹介の度に必ず言います。フェイントの効いた名前には、宿命的にそういう面倒臭さが付きまといます」
「『めい』はまだいい。しかし、山崎を『やまもと』と読むというのは、フェイントの次元が違うだろう。出会った人間はその読み方を確認しようともせず、百人が百人とも『やまざき』と読む。生涯にわたって訂正を求め続けるより、いっそ『やまざき』で通した方が面倒がなくていい、と思いもするよ」
 ある作家の言葉を思い出す。ペンネームの由来を説明すると長くなるから本名だと言って通そうか、というぼやき。
「でも、宅配便に『Yoji Yamamoto』と書いてあったということは、ヘロインのやりとりをしていたアメリカ人には『やまもと』と律儀《りちぎ》に名乗っていたんですね。そっちこそ、偽名でよさそうなものなのに」
 浜本が訝る。
「麻薬の売買の決算をクレジットカードでやっていたんだ。だから、彼は本名を名乗らざるを得なかったのさ。──納得したかい?」
 相手が頷いたので、火村は話を進める。
「山崎洋二は、優嗣さんがダイイング・メッセージを遺したことを知っていて『やまざき』のふりをしたわけじゃない。だから、私が面識のあるふりをして『やまもとさんですよね?』と呼びかけた時、『はい、そうです』と素直に返事をしたんだ。『おや、この火村という男は自分の名前を正確に知っているぞ。どこかできちんと挨拶をした人間なのかもしれない』と思って」
「『はい、そうです』という答えが返ってきた時は、やった、と思ったでしょう。でも、その後の会話はどうしたんですか?」
 用賀の疑問はもっともだ。
「そりゃ続けようがないから、適当にごまかしたよ。学生時代に旅先で会わなかったか、とか言ってね。もちろん彼は否定したけれど、『そんなに似ていましたか。苗字まで同じだとしたら、遠い親戚かもしれませんね』と笑っておしまいだった」
「それにしても」彩花が感服したように「火村先生って、すごいですね。山崎と書いて『やまもと』と読む変わった苗字がある、なんてことまでご存じやったんですから」
「いや、そんなことは知らなかったよ。はったりで訊いただけさ」
 火村は、にやりと笑う。
「はったり……ですか。それでもすごい、と思います。もしかしたら、山崎を『やまもと』と読むのかもしれない、やなんて私はとても想像できません」
「そうじゃない。私が想像したのは、504号室の山崎氏には、『やまもと』という別名があるのかもしれない、ということだけだよ。かつて芸能界にいたとか、ささやかに文筆業を営《いとな》んでいるとかいう可能性もなくはないだろう」
 彩花は、そう聞いても合点がいかないらしい。もどかしげに両肩を揺すりながら、なおも尋ねた。
「でもでも不思議です。どうして火村先生は、504号室の人間に疑いの目を向けたんですか? 隣りの部屋や704号室の人が『やまもと』という別名を持っているかもしれないやないですか。真下の部屋の人間が怪しい、と疑った根拠を聞かせてください」
 用賀と浜本も、同感だと言うように頷いている。火村はゆっくりと脚を組んだ。
「それは優嗣さんが教えてくれたんだよ。壁に血で書いた、あのダイイング・メッセージでね」
「判りませんねぇ」浜本が唇を尖らせる。「Yが、どうして504号室を指すんですか?」
「あれはYじゃないよ」
「判りません」と彩花も言う。「彼がどういう書き順であれを書いたのかについて、先生はこだわっていましたね。そのおかげで、縦の棒の後にVを書いたものだった、と私は思い出しました。縦の棒とV。それで、どうして山崎洋二が浮かび上がるんです。判りません」
「判りますよ」
 私は思わず呟いていた。三人が、揃ってこちらを見る。
「ああ、いや。皆さんが怪訝に思うのが判る、ということ。瀕死の優嗣さんが書いた意味不明のメッセージをどうやったら解読できるのか、私も理解に苦しんだ。何を書こうとして歪んだのか、解けるはずがないと思って。やっぱりYのつもりで書いた可能性もあるしね」
「あれはね、文字でも絵でもなく、記号だった。下向きの矢印だったのさ。矢印を描こうとし、手許が狂ったわけだ」
 火村は虚空《こくう》に↓と描いてみせた。納得した顔は一つもない。声に出して反問したのは浜本だ。
「つまり、真下の部屋の奴にやられた、という意味ですか。結果はそうだったわけですが……Yらしきものを見て、これは下向きの矢印だ、と推定できるものですか? 別の解釈が無限にできそうに思いますけれど」
「たとえば、ローマ数字のⅥだとか、アルファベットのMの書きかけだとか」
 私が考えたのと同じようなことを彩花が言う。
「違うね。ⅥでもMでもNでもない。そういった可能性はない、きっと矢印だ、と私は考えた。どうしてかって? それはね、優嗣さんが壁に描いたからだよ」
 聴衆の反応が鈍いので、火村は人差し指を立てて続けた。
「いいかい、床に倒れ込んだ彼は最後の力を振り絞り、指に血をなすりつけて沢口さんに何ごとかを伝えようとしたんだよ。矢印の一つもまともに描けない状態だった彼が、何故に理由もなく壁にメッセージを描く? 苦しかったろうに。右腕を持ち上げる労力を使ったりせず、床に描けばよかったじゃないか」
「つまり、ダイイング・メッセージをわざわざ壁に描いたのは……」
 浜本は大きく目を見開いた。
「そう。垂直の方向性を表現する必要があったからだ。それ以外の必然性が考えられるかい? だから、あれははっきりと下を指し示した矢印なんだよ」
「でも、先生」ベーシストは頭を掻きながら「彩花ちゃんの証言によると、優嗣はYに続けてまだ何か書こうとしていたらしいじゃないですか。それは──」
「それが何なのかは誰にも判らない。私が想像するに、手許が狂って矢印がYになってしまったことに気づいて、書き直そうとしたんだろう」
「ふぅん、それはそうかもしれませんが」用賀が何か言いたそうだ。「真下の部屋の奴にやられた、と伝えたかったんやったら、床に『504号』とでも書いてくれた方がよかったのに」
「その方がありがたかったね。しかし、形式論理的になるが、『504号』と書こうとするのはリスクが大きい。彼にはほとんど余力がなかった。もしもメッセージが不完全な形になり、『5』や『50』としか書けなかった場合、意味はまったく伝わらなくなるだろ。彼は、そんな事態を回避したかったのかもしれない。最も簡便なメッセージは、下向きの矢印だ」
「あのぅ、もしかしたら……」彩花が口許を手で覆いながら「優嗣君がギターを指差したのは、これで殴られた、ということじゃなくて……」
 助教授は頷く。
「彼は、何とか君に犯人を教えようとがんばったんだよ。まず、その名を『やまもとようじ』と言葉で伝えようとしたけれど、途中で声が出せなくなってしまった。そこで、『犯人は下の部屋の人間だ』と察してもらおうとして、床を指差した。それが、君には凶器のギターを指しているようにしか見えなかったんだね。まだ伝わっていない。ならば、と最後には自分の血で──」
「私が鈍感やったから、伝わらなかったんやわ。彼、きっと悔しかったでしょうね。『この馬鹿、どうして判ってくれないんだ』と、私の鈍さを罵《ののし》っていたかも……」
 彩花は目尻に涙を浮かべた。用賀と浜本が、両側から肩を叩いて慰める。そんなことで恨むもんか、一生懸命に理解しようとする姿に感謝していたはずだ、と。
「めそめそすんなよ。ここらでぱーっとやるか? 狂熱の追悼セッション」
 用賀がスティックをくるくる回した。
「聴きたいな」と私はけしかける。「〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉の最後のライブ」
 浜本が立ち上がり、ベースを取る。
「あいにくですが、〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉の曲はやりません。ギターがいませんから。あのバンドの歴史は、一枚のアルバムに封印しました」
 こぼれかけた涙を拭いて彩花が立った時、ドアが開いた。もう一人の招待客、優嗣の父親だった。
「遅くなりました。演奏はこれからですか?」
「ちょうど始まるところです。どうぞ」
 私が勧める椅子に、若かりし頃『消えない蒙古斑を持つ地母神の偉大な臀部が一発の放屁とともに覚醒する朝』という芝居を書いた男は一礼して着席した。
 かつて〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉というバンドに所属していた三人は、所定の位置につく。火村が人差し指と中指で鋭い口笛を鳴らした。
 彩花はあらかじめ作ってあるシンセサイザーの音を確かめてから「何をやる?」とベースとドラムスに尋ねる。
「そうやな」用賀はバス・ドラを一発鳴らして「この編成やし、オーディエンスの平均年齢が高いし。懐かしのエマーソン・レイク&パーマーでもやるか?」
「ELPか。うーん、うちのテイストと違うからなぁ」と言いながらチューニングをし直そうとする浜本の間の悪さに、シンセの前の紅一点が嘆息する。
「もういい。リズム・セクションは黙って私の即興演奏《インブロ》についてきたらええんよ」
 彩花のしなやかな指が、鍵盤の上に振り下ろされた。


fin. 

  • 0
    点赞
  • 0
    收藏
    觉得还不错? 一键收藏
  • 0
    评论
评论
添加红包

请填写红包祝福语或标题

红包个数最小为10个

红包金额最低5元

当前余额3.43前往充值 >
需支付:10.00
成就一亿技术人!
领取后你会自动成为博主和红包主的粉丝 规则
hope_wisdom
发出的红包
实付
使用余额支付
点击重新获取
扫码支付
钱包余额 0

抵扣说明:

1.余额是钱包充值的虚拟货币,按照1:1的比例进行支付金额的抵扣。
2.余额无法直接购买下载,可以购买VIP、付费专栏及课程。

余额充值