【あるYの悲劇】 有栖川有栖
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映画を観終《みお》えて外に出てみると、秋の日はもうとっぷり暮れかかっていた。ネオンサインが何となくもの哀しい。本来的に映画なんて、暗がりの底に身を沈めて独《ひと》りきりで鑑賞するものだが、たまには連れがいたらな、とふと思う。ふだんはそんなことを考えたりしないのに、初秋の風が私を感傷に誘っているのかもしれない。いや、単に斜め前にいたカップルがいちゃつくのを二時間も見せつけられたせいか。
サウスタワー・ホテルの窓の灯を見上げながら、私は高島屋の方へと交差点を渡る。勤め帰りのサラリーマンやOLが連れ立って歩く姿が目立った。デパートの正面入口あたりには、待ち合わせをしている男女が多い。ああ、そうか。今日は金曜日だったんだ、と気づいた。そういえば、どこか浮《うわ》ついた空気が街に漂っている。今の自分には関係がないことだが、かつて印刷会社で営業をしていた頃は、同僚たちと楽しい金曜日の宵《よい》を過ごしたこともある。
「そうか、金曜日か」
小声で呟《つぶや》いて、あてもないまま東へ歩く。あてはなかったが、どこで夕食をとろうか、とぼんやり思案していた。独りで食事をするのは慣れっこのはずが、今宵《こよい》はそれもわびしく感じる。三十四歳、独身。一年に何日かこんな日もある。だからといって、道行く女性に気軽に声をかけられるタイプでもない。シャイだからか、プライドが高いからか? その両方なのだろうが、もしも私が女だったら、街で気安く声を掛けてくる通りすがりの男など相手にしないことだけは確信があった。男でいる今より、さらにプライドが高い人間になっていた気がする。
頭髪を金色に染めた若い男が、不意に何かを私に突き出した。テレホンクラブの電話番号を刷り込んだティッシュ・ペーパーだ。機械的に受け取って、通り過ぎる。男は両方の手にティッシュを持ち、通行人の性別に応じてブルーのそれとピンクのそれを分けて手渡していた。男性用と女性用の別があるのだ。前方にも同じような男がもう一人いて、こちらの髪は紫色だった。七十が近そうなご婦人が「ちょうだい」と催促《さいそく》してピンク色のティッシュをもらっている。もちろん男は「お婆ちゃんには関係ないよ」と拒《こば》んだりしなかった。
レザー・ジャケットの胸に何か縫《ぬ》い取りがしてある。虎か、豹《ひょう》か? 覗《のぞ》き込みながら近づきかけると、男と目が合った。
「何?」
私の目つきが胡乱《うろん》だったのか、紫色の髪の男はぶっきらぼうに尋《たず》ねた。ひしゃげたような鼻をしていて美男子の典型からは遠いが、口許《くちもと》が引き締まったいい面構《つらがま》えをしている。
「いや、別に」私はとっさに訊《き》き返す。「バンドやってるの?」
相手は無言で頷《うなず》いた。
「俺も昔やってたんや」嘘《うそ》である。「色んなバイトしながら」
「あ、そう」
それがどうした、と言いたげだ。私はその右手からティッシュを抜き取り、小さく手を振って立ち去った。おかしなオッサンや、と思われたに違いない。
雑踏でティッシュを配るアマチュア・ミュージシャンは見慣れた街の点景だが、彼らと言葉を交《か》わしたことがある人間は少ないはずだ。まともな会話にはならなかったけれど、私はしゃべった。人恋しくなったためではなく、ほんの気まぐれだ。もしかすると、紫色の髪の彼が、三ヵ月前に出会ったある男に似ていたからなのかもしれない。
浜本欣彦《はまもとよしひこ》。
髪は金髪に染めていた。彼がベースを弾《ひ》いていたロックバンドの名前は……。
〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉。
言うまでもなく、夢野久作《ゆめのきゅうさく》の名作『ドグラ・マグラ』をもじったナンセンスな名前だ。夢野久作ファンの自分が回転寿司屋で思いついたのだ、と浜本が言ってたっけ。他のメンバーは夢野久作という作家も知らなかったが、語呂《ごろ》がふざけていて面白い、ということでバンド名に採用されたのだ、とも。
〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉の歌をテープで一曲だけ聴いた。演奏は決してうまいとは言えなかったし、楽曲自体もインディーズ・バンド的うさん臭さに幻想文学趣味をまぶしただけが取《と》り柄《え》のようで、その時はあまり感心しなかった。なのに、今でもサビの部分を口ずさむことができそうだ。
あいつが下劣
こいつは馬鹿
文句ばっかり並べやがって
どこへ行っても臭いなら
そりゃ、お前自身の匂いだろ
はは。うまいこと言うじゃないか。聴き直したくなってきた。インディーズ系バンドの中でもマイナーだったが、アメリカ村に行って探せば彼らのCDをまだ扱っている奇特なレコード屋もあるかもしれない。
振り返ってみると、人の流れの中に紫色の頭が覗いていた。夕闇は深まっていく。
私は西心斎橋《にししんさいばし》に向かうべく方向転換した。この後の予定が決まった。〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉のCDが見つかったなら、静かなレストランを見つけて食事をとろう。いつもより、ちょっとだけ豪勢な料理を選んで。楽しい宵は、独りでも創《つく》れる。